『娘が巣立つ朝』(伊吹有喜 著)文藝春秋

 小説を読み始めてびっくりしてしまった。なんと、主人公の一人、高梨智子は53歳で私とまったくの同い年、さらに、夫、健一が54歳とこれもまた一緒。まるで自分へのオーダーメイド小説のようだ、とぐいぐい引きつけられた。

 智子の娘、真奈は26歳、会社の総務課に勤務しているが、交際している、大学の同級生、渡辺優吾にプロポーズされ、顔合わせの食事をする、というところから物語は始まる。

 我が家には子どもはいないが、もしも娘がいたら、こんな夜を迎えることもあったのだろうか。自分だって、あの日あの時、どこかで一本別の道を行ったら……とありそうでなかった別の人生をじっと見ているかのような、不思議な気持ちにさせられた。

ADVERTISEMENT

 それにしても、上記の冒頭シーンから、この婚約者に対する微妙な違和感の描写が実に巧みで、なんでもない食事のはずなのに、一つ間違ったら、ホラー小説になってもおかしくないような場面が続く。

 しかし、こんなことはまだ序の口だったのだ。優吾の両親は著作もあるインフルエンサーで、一癖も二癖もあり、母親の実家は資産家。東京の郊外に住む、ごく普通の一家である高梨家を激しく翻弄する。

 SNSかなにかでちょろっとこの結婚の概要を読んだりしたら、破談にした方がいい、と簡単に言ってしまいたくなる。でも、現実の結婚ではそんな簡単なことはできない。ましてや娘が惚れているとわかる相手なら、いろいろあってもそれを飲み込んで、結婚させてあげたいと思うのが親心だろう。だから結婚はむずかしい。現代では恋愛を軸として、本人同士の意思で婚姻が決まることがほとんどだが、そこに家族や親戚という、新しい考え方では割り切れないものがほぼもれなくくっついてくる。実はここに矛盾があるのだが、それをまるっと「愛情」や「絆」とかいう言葉でなんとかやってきたのが、戦後日本なのだ。

 この結婚に一番反対しているように見え、いつも不機嫌でため息ばかりの父親の健一に、最初は同感できなかった。でも、彼が結婚式に至るまでの細かなリストを作ってくれるところで、早くも涙がこぼれてしまった。

 しかし、そんな温かい気持ちはつかの間、物語はさらにさらに思いがけない方向に進む。それはないだろう……とうめきたくなるようなこともある。だけど、この小説は、智子、健一、真奈の視点で丁寧に描かれるので、各自の気持ちがちゃんとわかる。

 人には皆、自分の言い分があり、はたからは突拍子もない行動に見えても、そこには真っ当な理由がある。何か我慢ならないことがあった時、一度は相手の気持ちになって考えてみたら?という当たり前で、一番大切ながら、とてもむずかしいことも教えてくれる、素敵な小説だ。

いぶきゆき/1969年三重県生まれ。2008年、『風待ちのひと』でポプラ社小説大賞・特別賞を受賞してデビュー。ほかの作品に『四十九日のレシピ』『ミッドナイト・バス』『彼方の友へ』『雲を紡ぐ』『犬がいた季節』、「なでし子物語」シリーズなど。
 

はらだひか/1970年神奈川県生まれ。著書に『三千円の使いかた』『図書館のお夜食』『喫茶おじさん』『定食屋「雑」』など。