まだ20代の頃、初めてニューヨークに行った時に真っ先に向かったのが近代美術館だった。目的はゴッホの「星月夜」。美術には疎かったので、他の作家の作品には目もくれず、「星月夜」だけを目指した。天文学を学び始めた学生であった私は、この作品の尋常ならざる星や月の描写に衝撃を覚え、ともかく本物を目にしたかったのである。そこには、まるで抽象画と写実画とが合体したような奇妙な世界があり、渦巻く夜空や躍動感溢れる星や月が何かを訴え、迫ってくる気がした。それはゴッホの熱い魂の発露に違いなかった。「夜のカフェテラス」制作中、妹に書いた手紙には「ぼくはいま、星空を描きたくてたまらない。よく思うのだが、紫や青や濃い緑に彩られた夜のほうが、昼間よりも色彩が豊かだ」と記されている。夜の風景に惹かれたゴッホの思いがそこにある。
そんな豊かな夜の風景を描いたゴッホの作品の数々に、天文学からアプローチを試みたのが本書である。数多くの手紙を読み解き、丹念な現地調査と共に、星空を再現するコンピュータシミュレーションを駆使して「夜のカフェテラス」に描かれる星々が1888年9月9日から14日までの間の23時頃、みずがめ座の星々であることを明らかにし、「ローヌ川の星月夜」に現れる北斗七星が同年9月28日21時45分頃の姿で、地上風景と高度な合成が行われていることを解明する。その後の療養所で描かれた「星月夜」では、描かれた星々の特定にとどまらず、星月夜に現れる渦巻き模様について、当時最新の天文学で話題となった銀河の渦巻き模様にインスピレーションを得たという通説を打破し、地球の雲説を採る。写実的でありながらも、バランスを重視して違う日時の景色を合成したり、「糸杉と星の見える道」で水星、金星、月の並びを鏡像にしたりすることで仕上げていった、ゴッホの作品の複雑な制作過程が、独特の精神遍歴の慎重な分析と共に、時系列で読み解かれていく。晩年の作「夜の白い家」で、モデルとなった家を探し出し、その上に描かれた星を金星と特定した先行研究を追試する姿勢は、いかにも学者らしい。ニューヨークで初めて目にした「星月夜」とはまた違う形で私に新しいゴッホ観を残してくれた。
著者ルミネの生まれ育ちは、ゴッホが「ローヌ川の星月夜」などの名作を生んだ時期に滞在していたのと同じプロヴァンス地方である。そのため、同じ風景に共感する著者ならではの感覚と、ゴッホへの深い敬愛から生まれたのが本書といえるだろう。星や月といった夜の風景への強い思いは、ゴッホという天才をして、これだけの芸術へと昇華させ、そして自らもエネルギーを使い果たし、空に帰って行ったことを深く納得させるものだが、ゴッホと同じく37歳で夭折した宮沢賢治に相通じるところがあると感じるのは私だけだろうか。
Jean-Pierre Luminet/1951年フランス生まれ。天体物理学者、小説家、詩人。専門はブラックホールおよび宇宙論。マルセイユ天文物理学研究所所属、フランス国立科学研究センター研究名誉部長。天文学のほか、音楽や芸術についての著作も数多い。
わたなべじゅんいち/1960年福島県生まれ。天文学者、理学博士。国立天文台上席教授。『賢治と「星」を見る』など著書多数。