でっかい店舗を構えている島忠ホームズがやたらと目立つが、それ以外はこれまでの静謐な住宅地とはうってかわって、たくさんトラックが走っているような、どことなく殺伐とした空気感。第二産業道路という、いかにもな名前の大通り沿いには、倉庫や工場のような施設も見える。
急に雰囲気が変わったなと思いきや…
完全無欠な住宅地だと思っていた見沼代親水公園駅も、少し北に歩いて川を渡っただけで、こうも雰囲気が変わってくるものなのか。
実は、このあたりはもう東京都ではなく、埼玉県だ。埼玉県だから殺伐としている、などというつもりはサラサラないが、都県境を跨げばいくらか雰囲気が変わってくるのはとうぜんのこと。
それに、このあたりは埼玉県は埼玉県でも川口市と草加市の境界付近にあたる。京浜東北線や東武スカイツリーライン沿いはベッドタウンとして知られるが、一方では戦後発展した東京近郊の工業地帯という顔も持つ。
見沼代親水公園駅の北、都県境を越えたばかりのこの場所は、ちょうどそうした工業地帯の側面がまだまだ色濃く残っているエリアなのだろう。
今度は南側に向かって歩く。5分もすると…
都県境という実に人為的に引かれた境界線が、思いのほか町の雰囲気を変えるということを実感し、再び見沼代親水公園駅に戻ってきた。こんどは、北ではなく南に向かって歩いてみよう。
ほんの5分ばかり、尾久橋通りを南に歩く。すると、今度はまた変わった雰囲気の町並みが見えてきた。
尾久橋通りとの交差点は金融機関やスナック、古い飲食店や商店がいくつかまとまっている一角だ。金融機関がある交差点は、その地域の古くからの中心地であることが多い。だから、実は見沼代親水公園駅周辺の“中心”は、駅の南のこの場所なのか。
交差点に金融機関を置いて尾久橋通りと交差する道は、赤山街道という。この街道の歴史は古い。
江戸時代の初め頃、関東郡代を務めた伊奈忠治がその拠点として現在の川口市内に赤山陣屋を置いた。赤山街道は、その陣屋と江戸から通じる日光街道を結ぶ道筋なのだ。赤山街道沿いには江戸の昔から小さな市街地が形成されていたのだろう。
そして、伊奈忠治は見沼代親水公園の町そのものにも、深く関わっている。