向田漁港の漁船は5隻が道路などに打ち上げられた。そのうちの1隻は橋下さんの船だ。他の港から流れ着いて、沈没した船もあった。
橋下さんは漁船をもう1隻持っていたが、これは100kmほど離れた新潟県上越市に流れ着いた。
「かなり壊れていたようなので、現地で処分してもらいました」と語る。
港は地震による損壊に加えて沈下してしまい、海が岸壁を洗うようになった。
来館者のほとんどが島内の避難所へ
話を水族館に戻そう。高橋係長らが能登島生涯学習総合センターを訪れると、避難所が開設されていた。既に多くの島民が避難していて、水族館に取り残された来館者が入れる場所はなさそうだった。
それでも、避難所運営の世話役をしている人に「水族館の駐車場に150~200人ぐらい取り残されています。受け入れてもらえないでしょうか」と相談した。
世話役は「分かった」と言ってくれた。コミュニティセンターに新たに避難所を開設しようとしていたので、そちらに向かうよう指示した。ただし、断水していて、食料もない。「それでもよければ」という話だった。高橋係長は「暖が取れるだけでもいい」と考えていた。「よろしくお願いします」と頭を下げた。
水族館の駐車場に戻り、「島内の避難所に身を寄せることができる」と伝えて回ると、半分ぐらいが「行きたい」と答えた。
途中の道路は地震で崩落して通れず、集落の中の細い道をたどらなければならない場所もあった。このため、高橋係長らの誘導で車列を組み、30~40台ほどの来館者が避難所へ向かった。午後10時頃だったと記憶している。
さらにその1時間後、水族館の駐車場でもう一度声を掛けて回ると、残っていた車のうちの半分程度が避難所へ移った。
最後まで水族館の駐車場に残ったのは5台ほどだった。
長引けば、さらに酷い事態を招きかねなかった
「いつまで島内で孤立するか分からなかったので、移動でウロウロしてガソリンを消費したくないという考えがあったようでした」と高橋係長は話す。
こうして食事もできず、断水で便所も使えないまま、翌1月2日の朝を迎えた。
橋は、通行止めになった2本のうち、能登島大橋が午前10時に通れるようになった。足止めされていた来館者はようやく島外に脱出することができ、高橋係長はほっと胸を撫で下ろした。
長引けば、さらに酷い事態を招きかねなかったからである。
例えば、避難所の食料は全く足りてなかった。向田漁港の橋下さんは「発災初日は食べ物がありませんでした。2日目に炊き出しが始まりましたが、高齢者が優先だったので、私に回ってきたのはお握りが1個だけでした」と語る。
200人近い来館者が食べる分はどれだけあったろう。
また、発災した日が悪ければ、何千人も取り残される恐れがあった。