愛情いっぱいに育てられましたので、苦労らしい苦労って、したことがありません。戦時中は群馬の沼田に疎開しましたが、辛い思いは一度もしませんでした。東京の人はよく、疎開先でいじめられた、酷い目に遭ったと言いますね。私は何にでも興味を持つので、田植えや畑仕事もすぐ手伝いますから、気づけば田舎の生活に馴染んでいた。アカガエルなんか、獲って焼いて食べていたんですよ。いま考えれば、カエルさんもお気の毒ですけど……あの頃は夢中で獲っていた。友だちでいじめられている人がいれば、箒を振り回して守ります。弱い者いじめは大嫌い。友だちがたくさんいたので、戦争が終わった後も沼田に残り、地元の中学、高校へ進みました。
呼吸までその人になる
私の叔母は佐々木清野といって、松竹蒲田時代のスター女優だったそうです。物心ついた頃には引退していましたが、小津安二郎監督を「おっちゃん」と呼んでいたのには驚きました。その叔母が、何が何でも姪っ子を自分の跡取りにしたかったようで、私は2歳で映画デビュー。女優になる決意を固めたのは、小学3年生でした。ある時、鏡に映る自分の姿を見て、
「私は女優さんで行く!」
そう思ったんです。だけどその頃はまだ演技がどうというより、芝居をして拍手を浴びるのが、ただ楽しくて、嬉しかったんですね。
役者の魅力は? と考えると、やっぱり、自分じゃない誰かになれる楽しさではないでしょうか。そのためには、いろんな人を観察しなきゃなりません。役をもらうと、「この人はこういう性格で、こういう人生を歩いて来た」と想像する。そして、近い性格の人を見つけたらその人の傍にくっついて、一緒に遊びに行ったりして、よくよく観察する。向こうは不思議に思っていたかもしれませんけど(笑)。昔は女優の仕事の方が好きでしたが、30代の頃からは声優の仕事が大好きになりました。なぜかって、たとえば洋画のアフレコなら、外国の女優さんになり切れる。お芝居も自分とは違うし、セリフの間や、呼吸の仕方まで自分とはまったく違う。呼吸までその人に合わせて、その人の呼吸を覚える。それが楽しいんです。
映画よりも舞台で演じるのが大好きだった私は、高校を卒業すると、大学には進まず上京して、高田馬場にある劇団東芸に入団しました。声優の仕事を始めたのは、劇団の資金稼ぎのため。当時、テレビやラジオの仕事は「マスコミ仕事」なんて呼ばれて、下に見られていたんです。舞台で役をもらえなくて代わりにテレビに出るなんて言うと、「あいつは堕落してどうしようもない」と言われてしまう時代でした。
声優としての最初の仕事は、19歳の時。テレビで放映される洋画でインディアンの少年の吹き替えをしました。ドラマと一緒で、当時のアフレコもすべて生本番。やり直しのきかない仕事で緊張する人もいたようですが、若かったせいか、勢いでこなしていました。時代はテレビの黎明期。俳優としてドラマの仕事もたくさんやりましたが、次第に洋画やアニメーションの人気が高まり、声優の仕事が増えていきました。
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本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「オラ生まれっ放しの声優」)。