“愛情過多”で育った
私は1936年、東京の日暮里で生まれた下町っ子です。父は山水画家の野沢蓼洲(りょうしゅう)、母の鶴は専業主婦でしたが、なんでも、大名家の娘だったとか。「そんなもの、今の時代なんの足しにもならない」と、自ら話すことはありませんでしたが、いつも着物を崩さず、「さようでございます」が口癖の凜々しい女性でした。父が48歳、母が51歳と、高齢で生まれたひとり娘。それはもう“愛情過多”で大切に育てられました。
2人とも本当に優しい両親でした。母が怒ったのを見たのは一度っきり。小学校低学年の頃、2人で日光東照宮へ旅行をした時のこと。帰りの列車に乗るため大行列に並んでいると、母が私を残して食べものを買いに行った隙に男の人が割り込んできた。戻って来た母が不審に思い、前後に尋ねました。
「お連れ様でございますか?」
「違います」
「お連れ様でございますか?」
「違います」
すると、母が豹変します。
「ちょいとあんた! 女だからって馬鹿にするんじゃないよ! 後ろへお戻り!」
江戸っ子のべらんめぇ口調にその人も面食らったかソソクサと退散。家に帰って父にそのことを話すと、「お母様は怒らせたら怖いんだよ」と笑っていたので、父は知っていたんですね。それ以来、母に逆らったことはありません。
母の涙を見たのも一度っきり。実は、私は母が産んだ子ではありません。高校の時、学校に提出する戸籍謄本を役所に取りに行って初めて知ったことです。父は、流産を経て子どもができなかった母と相談し、野沢の家を絶やさないためにと、知り合いの女性に産んでもらったのだそうです。ショックを受けて泣く私に、母はこう言いました。
「私は、あなたを自分が産んだ娘だと思って育ててきたの。これからもずっと、そのつもりだよ」と。私も「この人以外に、私の母はいない」。そう思って、胸を張って生きてきました。
子どもが大好きだった父は、私の同級生の面倒まで見るような人。だけど、小さい頃はそんな父が鬱陶しかったのです。晴れていた日に雨が降ると、憂鬱になる。なぜって、父が学校に傘を届けにくるからです。それもお友だちの分まで。同級生の家をぜんぶ回り、たくさんの傘を背負って来る。父の姿が見えると、
「うわあ……、来た」
なんて、頭を抱えました。
「マーちゃん、傘を持って来ましたよ!」
お構いなしに大声で叫ぶもんだから、嫌になっちゃうんです。