20代後半で結婚していない焦り
また、紙に朱色をポツポツと落として、それが「涙の色」だといってきたときには、
「くれなゐの涙ぞいとどうとまるるうつる心の色に見ゆれば(血のような涙の色を、私は疎ましく思います。朱色がすぐに変色するように、あなたの心も移ろうのでしょうから)」
とやり返している。しかし、こうしてやりとりを重ねるうちに、紫式部は宣孝のプロポーズを受け入れる気になっていったのだろう。女性は男性の浮気心を詰りながら、次第に相手との距離を縮めていくのが普通だった。
ただし、この「くれなゐの涙ぞいとど」の歌に続いて、「もとより人の女を得たる人なりけり(相手の男性は、以前からほかの娘と結婚していた人です)」と記している。紫式部は宣孝と結婚したとき、自分がどのような扱いになるのか、理解していたということだろう。
いずれにせよ、紫式部は都から遠く離れた越前に辟易としていた。同時に、すでに20代後半になって、当時としては、結婚時期を大きく逃しているという焦りもあって、宣孝との結婚を決意するにいたったのだろう。
倉本一宏氏はこう書いている。「私にはどうも、為時の着任が一段落したら京に帰って宣孝と結婚するのが規定の行動だった気がしてならない。紫式部は当時、二十六歳前後と考えられるが、これは当時としてはきわめて遅い初婚で、二度目の結婚という説もあるくらいである」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。
ふたりの新婚生活の様子
紫式部は越前で1年余りをすごしたのちの長徳4年(998)の春、父の為時を越前に残し、一人で都に帰った。しかし、都に着いてからも、宣孝から「言葉へだてぬちぎりともがな(隔てを置かない仲になりたい)」という歌を受けとると、こんなふうに返している。
「へだてじとならひしほどに夏衣薄き心をまづ知られぬる(私は心を隔てたりしないようにお返事しているのに、隔てない契りをもちたいと強調してくるあなたは、夏の衣服のようにお心が薄いとわかりました)」