このように詰りながらも、結婚に向かって事は進んでいき、いよいよ同年冬、2人は結婚した。
とはいえ、先述のように、宣孝はすでにほかに妻がいる身だった。いずれかの妻のもとで暮らし、紫式部のもとに時おり通う「結婚生活」で、紫式部の生活が大きく変わったわけではなかった。
相変わらず歌を詠み交わしながら、夫が通ってくるのを待つ。ただし、紫式部は性格に一本筋がとおっており、男にとって、必ずしも御しやすい女性ではなかった。
自分が書き送った手紙を、宣孝が他人に見せていると聞き知った紫式部が、「ありし文ども取り集めておこせずは、返りごと書かじ(これまでの手紙などすべて返してくれなければ、返事を書きません)」といってきたので、焦った宣孝は「みなおこす(すべて返す)」と返答。それに紫式部はこう返した。
「閉ぢたりし上の薄氷解けながらさは絶えねとや山の下水(氷に閉ざされた谷川の薄氷が春に溶けるようにやっと打ち解けたのに、山に流れる下水がまた途絶えてしまうように、2人の仲も切れていいと思っているのですか)」
突然終わった幸福な結婚生活
こうした紫式部の「強さ」には宣孝も降参し、結婚生活は進んでいった。おそらく長保元年(999)には、2人の間の唯一の子である賢子が産まれ、紫式部は父が留守で夫が時折、通いくるだけの屋敷で、一人娘を育てることになった。
その後、紫式部は七夕に、次のような歌も宣孝に送っている。
「天の川逢ふ瀬を雲のよそに見て絶えぬちぎりし世々にあせずは(天の川の逢瀬は雲の彼方のよそごとだと思って、それより私たちは、今夜は会えなくても、切れることがない仲がずっと変わらなければよいと思います)」
なんだかんだいって、夫婦仲はよかったようである。ところが、長保3年(1001)4月25日、宣孝は病死する。九州発の疫病が流行していた折から、感染した疑いもある。紫式部は結婚からわずか2年半で、寡婦になってしまうのである。
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。