このころ、埼玉県警は一連の失踪事件は関根の仕業だと確信。その動向を徹底的にマークしていた。一方、1993年10月に大阪で発覚した愛犬家連続殺人事件(犬の訓練士を自称する上田宜範が金銭トラブルのあった知人ら5人を筋弛緩剤で殺害。後の裁判で死刑判決)と同様、埼玉でも愛犬家が不審な失踪を遂げていると関根のもとには連日マスコミが押し寄せていた。が、彼は平然とした顔でインタビューに応じ「人が行方不明になると、どうして私が殺したことになるんですか?」と、まるで動じる様子を見せなかった。
唯一の弱点は「全てを知るYの存在」
そんな関根にもウィークポイントがあった。全てを知っているYだ。証拠のない一連の殺害でYの証言だけが力を持つことは関根自身がよくわかっていた。そこで、関根は何かと理由をつけてはYを自分のもとに呼ぼうとした。もちろん、殺害するためだ。さらにこの時期、Yを必要としていたもう一つの存在があった。自分の組の人間を関根に殺されたと考えていたEが所属していたヤクザ組織だ。結果、彼らも唯一全てを知る男としてYに追い込みをかけてきた。窮地に立たされたY本人が出した答は、警察に自首することだった。
1994年12月、Yは警察に出頭。全てを打ち明ける。1995年1月5日に関根と風間逮捕。その後、警察は関根が骨を撒いた山林から最初の被害者Kさんの腕時計、御守り、歯の欠片を、川からは焼け残った義指や車の鍵などを発見。関根と風間は4件の殺害で起訴される。
1995年7月7日から浦和地裁で始まった裁判は、罪のなすりつけ合いとなった。関根は全ての事件への関与を認めながら「全ては風間の首謀」と主張。対し、風間は4人のうち暴力団幹部Eと運転手Wに対する死体遺棄事件への関与だけを認め、残りは関根が首謀と反論した。また2人は、死体遺棄を手伝ったYが殺害の実行者と主張した。審理は5年8ヶ月に及び、2001年3月21日に判決公判。裁判長は、4人の死体損壊・遺棄で懲役3年の実刑を受け、その時点で刑を終え出所していた元会社役員のYの供述を最大の立証の支えとした検察側の主張をほぼ全面的に認めたうえで、互いに相手が首謀したとする両被告の主張を退け、Kさんを除く3人の被害者については「ほぼ対等な関係」で共謀が成立していると認定し、2人に死刑を宣告した。