1ページ目から読む
2/3ページ目

 驚いた。驚いたし、逆に困りました。

――困った、と言いますと?

 やっぱり現実的に戦争が起こってしまうと、どうしてもイメージがクリアになるじゃないですか。現在ウクライナで起こっている現状も、僕らは断片的ですけど観ることができて、僕が書いてる事とか想いって、「絵空事じゃないか? 綺麗事じゃないか?」という葛藤がありました。後半にかけて、非常に押し寄せてきましたね。

ADVERTISEMENT

 でも、すごく葛藤はあったんですが、最終的に戦争が起こってしまったからこそ、綺麗事と言われても本来目指すべき姿を描くべきだと思って、結末まで書きました。

2019年12月、長崎県松浦市の鷹島にて©文藝春秋

――プロットは作られないそうですが、本作の結末は元々決まっていたんですか?

 今回もプロット無しで書きましたが、最後に六郎が取る行動というのは、「こうなるだろう」と決めてました。決めてたからこそ、現実で起こってしまった戦争とのギャップみたいなものはあったかなぁ……。

「信じたい」という欲求があるからこそ「繋がれる」

――結末の着想は、史実として残っている「河野の後築地(うしろついじ)」からでしょうか?

 河野家は最も危険な最前線に陣を張った軍団ということで、当時の人々から「なんて勇敢なんだ」と賞賛されました。

 しかし本作で、今村さんは全く違う解釈をされています。「戦うため」ではなく「戦わないで済むように、敵軍と対話するため」最前線に陣を張ったわけですが、この発想はどうして生まれたのでしょうか?

 厳密に言うと、なんで後築地をやったのかは不明。周囲が勝手に「アイツは戦いたいから行った」「それってすごい勇敢だよね」という説が残ってるけど、実際、六郎の真意は定かじゃないんです。

 それはそれでリスクも高過ぎるし、別の意図があったんだとしたら、何だろうと考えた結果、僕はこれしかないなぁと。一番前に行くことは、一番に戦うこともできるけど、違うこともできるよね……と思ったのがきっかけです。

2019年12月、長崎県松浦市の鷹島にて©文藝春秋

――その設定は書く前からありましたか?

 ありました。その結末が構想であったからこそ、六郎という人間は「こうだ」と決まってました。

 2016年の短編で書いた時は、今読み返しても、おかしいなって思うんです。六郎という人物が、戦うんじゃなくて対話しようという考え方に至るまでの原因とか時間がどうしても必要なはずだった。今回長編を書くにあたり、六郎がそういう人物になるよう逆算していった時、令那や繁の物語が立ち上がってきたって感じですかね。