――クマは今、史上、もっとも増えているのではないかという説も出ています。ある意味、人間との生息域の奪い合いですよね。どちらが生き残るか。
二神 クマが増え過ぎている。人間も増え過ぎてしまった。確かに、ちょうどいいクマの頭数を残すというのは難しいと思うんです。ただ、人間たちは動物を絶滅させると生態系に致命的なダメージを与えるということにはもう気づいていますから。そこは救いですよね。
クマを撃ちたいと思うことは?
――二神さんはクマを撃ちたいと思うことはないのですか。
二神 憧れはあるんです。自分で獲ったものを自分で食うみたいな生活に。ただ、硝煙の臭いがついたら、もう動物の写真は撮れなくなるかなとも思っているんです。物理的なものというより精神的なものですかね。狩猟者になるということは自然体系の中で主役になることでもあるんですよ。一方、僕がやっている撮影行動の主人公はやはり動物たちなんです。なので、狩りをするということは、その主体と客体が入れ替わってしまうことでもあると思っていて。
――ちなみに今年もまた昨年のようにクマが人里にたくさん現れるのでしょうか。
二神 クマの食性は多様なので、そんなに簡単に飢えたりはしないものなんです。ただ、昨年はいろいろな種類の木の実やサケなど、クマの餌が軒並み少なかった。だから、人里に出てこざるをえなかったと思うんです。ただ昨年、かなりの頭数が駆除されていますし、今年もあらゆる山の中の食物が不足するということは考えにくいので、昨年のようなヤバい状態になることはないと信じたいですね。
クマの気配が感じ取れる写真
――今年は精力的にクマの撮影をしようと考えているのですか。
二神 今年はやろうと思っています。ただ、今、僕が考えているテーマは「サイン」なんです。クマの気配が感じ取れる写真。もともと僕がヒグマに興味を持ったのも、観光で北海道に来たとき、クマが食い散らかしたサケの残骸を見たからなんです。そのとき、強烈にヒグマの存在を感じたんです。「ここにクマが来たんだな」「さっきまで、ここにクマがいたんだな」と。想像力は無限なので、実際に見たときの感動を超えることもあるじゃないですか。
――ヒグマって、ある意味、見えないから怖いんですよね。
二神 昨年のクマ騒動で、日本人の脳にものすごく強烈にクマのイメージが焼き付いたと思うんです。でも、それも時間が経つと忘れてしまう。だからクマを感じるという感覚を残すためにも、これからはクマの存在を想像させる写真により力を入れていきたいなと思っているんです。見えないけど、感じる。それが野生動物と人間の適正な関係だし、幸福な関係でもあると思うんです。僕がクマを撮り始めた頃、丸2年間、ほとんどクマに会えませんでしたけど、それでも幸せだったんです。妄想の世界で何度も会っていたので。会ってしまったら、それでおしまいですから。近い将来、そんな人とクマの理想的な距離感を「サイン」という表現方法で何らかの形にしたいと思っているんです。