けがは本物だった。相米が「カット」をかけると、現場は大騒ぎに
原作者の赤川次郎は映画公開時、相米と同席した鼎談で、《けがして血が出て、あれ本物でしょ、よくやったな、やめないで》と感心した。これに対して相米は、《どっかでああいう顔するのが分かったんだね、今度の撮影中に。(中略)あそこまでいったからいいんじゃないかと思いますね。偶然が強過ぎたからね。と言っても、ひろ子の中では偶然じゃないからね。けがするのも必然的、別にけがに動じた顔じゃないし》と語っている(『キネマ旬報』1981年12月下旬号)。
もっとも、相米が「カット」をかけると、現場は大騒ぎとなった。周囲から「大丈夫か」と一斉に大声があがり、薬師丸は「だ、大丈夫です……」と答えたものの、すぐに病院に担ぎ込まれた。その後、彼女は撮影現場に戻ってきたものの、「痕が残るかもしれないってお医者さんに言われた」とベソをかいていたと、共演者の寺田農が証言している(『週刊現代』2015年3月28日号)。
高校と大学はけっして休まないと決めた
撮影中以外の薬師丸はあくまで普通の少女だった。映画業界の挨拶は昼夜関係なく「おはようございます」だが、彼女は夜なら「こんばんは」と普通に挨拶をした。学校も、中学時代に『野性の証明』の撮影で50日以上休み、久々に授業に出たら何もわからなくてショックを受けた経験から、高校と大学はけっして休まないと決めた。そのため映画の撮影は春休みと夏休みに集中して行い、『セーラー服と機関銃』のあとは大学受験のため1年間休業する。それは当時の芸能界では異例のことであった。
しかし、いまとくらべると芸能人がはるかに無防備だったこの時代、薬師丸の通う高校には心ないファンが潜り込んで盗難や落書きをしたり、マスコミが来てほかの生徒にいきなりマイクを突き出したりということもあったらしい。そのたびに彼女は自分のせいで周囲に迷惑をかけているとやるせなさを感じたが、友達や教師がかけてくれる優しい言葉に救われた。おかげで仕事を離れた1年間は充実していたという(『GORO』1983年3月10日号)。
受験にも無事合格し、1983年4月に玉川大学に入学した。同時に芸能活動を再開するも、その2年後、薬師丸は大きな決断をすることになる――。