好き放題に文句を言えとは誰も言ってない
最近では、ハラスメントも行きつくところまで行って「スメルハラスメント」まで出てきましたし、セクハラ界隈でも「いやらしい目つきで見てきたからセクハラを訴え出る」という事態も発生しました。臭うのはしょうがないし、目つきは別に行為じゃないだろ。学生の論文を指導して、良かれと思って赤を一杯入れてあげたらこの教官は自分が嫌いなので論文を通さないようにするため赤を入れたのだとハラスメント委員会にアカハラ告発を申し入れるとか、ほんと常軌を逸しています。ああいう奴はマンホールにでも落ちてしまえばいいんだ。活発に意見を交わせとは言ったが、好き放題に文句を言えとは誰も言ってないんですよね。
そもそも、人付き合いなんてストレスの塊じゃないですか。みんながみんな、気の合う人でもない、そういう好きでもない人でも肩を寄せ合って満員電車に乗って暮らしているのが人生なのだから、多少心理的なテリトリーに踏み込まれても半笑いで忘れてあげる、というのが生活上のマナーだと思うのです。いちいち問題にしない、という。
社会的鷹揚とか常識の範囲内がなくなると、どうなるか
そうなると、「何が問題か」を話し合う土壌を日本でしっかり根付かせよう、それはメディアの役割であり機能であり責任である、みたいな話に容易になります。新聞や週刊誌は事実を報じこそすれ、社会規範のあるべき姿をお説教するほど偉い存在でもないというのに。私なんかこの原稿の締め切りを二日も過ぎて担当編集に平謝りするぐらい規範的精神の乏しい人間であって、誰かに偉そうに「お前は仕事が遅いから締め切りを守れ」なんて言える立場も資格もありませんよ。原稿が遅れて申し訳ございませんでした。ただ、日本社会を見渡してみて、やはりいろんな情報に接しすぎているのか、問題や危機を煽りすぎ、それが我々に突きつけられていて解決しなければならないものなのだと言われると「あっ、そうなのかな」と当事者意識を持ってしまうのではないかと感じるのです。
社会的鷹揚とか、常識の範囲内っていう遊びの部分がなくなると、やはりギスギスするもんだと思います。「まあこの辺はお互い様だし我慢するか」とか「そうは言っても、相手にも考えや立場があるだろう」といって丸く収まるべきところが、「お前は不当に扱われている」とか「もっと幸せに生きる権利があるはずだ」などと煽り立てられることで被害者感情が出て白黒つけたくなるのは残念なことです。
世の中には、やはり「すぐには解決しなくてもいい問題」ってのがあるはずなんですけどねえ。おっさんが気軽に園児に挨拶しても許される、暖かい社会にしていきたいです。