帽子もくずれてもみくちゃになり……
次にお目にかかったのは学齢に達してから。皇族の長男は毎年1月3日朝、一人一人、両陛下、皇太后陛下の前で御挨拶(お辞儀)をすることになっていた。
私は昭和4(1929)年の生れだから、昭和6年の満洲事変、7年の五・一五事件、11年の二・二六事件、12年開始の日中戦争(当時は日支事変といった。宣戦布告なしで始めたからと了解する)、16年からの太平洋戦争、敗戦の20年までの15年戦争ともいわれる戦争の時代が、丁度私の青少年時代だ。だがこの間、あの平和主義、立憲君主制尊重主義、無私、国民第一主義の陛下はどんなにか悩み、嘆かれたことだろう。昭和20年8月15日、日本国疲弊、やっと陛下の終戦の宣告が通って足かけ5年の太平洋戦争は終りを遂げた。
終戦の詔勅を私は広島県江田島の海軍兵学校で拝聴し、数日後あの惨状の中、広島市を通って帰京したのだった。
終戦後は色々あったが、昭和22(1947)年にGHQの指令で皇籍離脱後、成年になってからは、1月1日の朝に成年の皇族旧皇族と共に参内し、両陛下、皇太后陛下に御挨拶申し上げた。このほか天皇陛下には、天皇誕生日(天長節から名称変更)、年末御挨拶、一同の会食など、年に数回お目にかかり、お話をする折もあった。
陛下はお会いすると、「や、元気?」と一寸尻上りに仰る。「はい、元気にして居ります」と云うと、あの有名になった「あっ、そう」と仰るのだが、私にはあの「元気?」と仰る、何とも云えない雰囲気、にこやかなお顔が忘れられない。
私どもが結婚した時、小宴を賜り、記念の銀のボンボニエールをいただいたのだが、皇后様が「お上(かみ)がこれに鴛鴦(おしどり)をきざむように、と仰せだった」と仰った。
敗戦後、全国を車中泊をなさったりして、何度かに分けて廻られたが(米国施政権下の沖縄を除く。陛下は終生沖縄訪問が出来なかったことを悩まれていたとのことだ)、あのこよなく愛する国民に交(まじ)って、帽子もくずれてもみくちゃになり、「陛下はどこにおいで」と叫ぶ紋付姿のお婆さん。そういうお姿は昭和様そのものだ。
※本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「昭和天皇 や、元気?」)。
「文藝春秋 電子版」と「文藝春秋」8月号では、大特集「昭和100年の100人 激動と復活編」を展開中。昭和の忘れがたい人物100人の「本当の姿」を、意外な著名人、親族が紹介しています。
「三島由紀夫 あそこだ、空飛ぶ円盤だ!」横尾忠則「宮本常一 土佐源氏をアニメに」鈴木敏夫
「井伏鱒二 すげぇ小説」町田康
「力道山 俺の笑顔は千両だろ」田中敬子(妻)
「淡谷のり子 あんた帰りなさい」清水アキラ
「美空ひばり 錦之介さんの口紅」石井ふく子
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2024年8月号
2024年7月10日 発売
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