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これが、谷川岳「魔の時代」を象徴する遭難事故であり、世界の山岳史上でも類を見ない事件の発見時の概要である。
ザイルにぶら下がっていたのは、横浜の山岳会に所属するクライマー。空中にぶら下がっていた人のほかに、動きがないクライマーが上方にもうひとりいることもわかった。
目撃者がいなかったため、彼らがどうしてそのような状況に陥ったのかは不明だが、登山届によれば、前日18日に入山しているようだった。なんらかの原因で転落し、ザイルに結ばれたまま死亡したのではないかと推測された。
現代のクライミングの常識でいえば、それだけで死んでしまうことは考えにくい。ただし当時は、現在のようなクライミング装備はなく、クライマーはザイルを胴に直接結んで登っていた。宙づりになってしまったら、ザイルによって体が強く締め付けられ、ほどなく命を落としてしまうというのが常識だった。ふたりのクライマーはそのような状況に陥っていたのだった。
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「銃でザイルを切断して遺体を落とすのはどうだろう」
翌日、ふたりが所属する山岳会の会員が谷川岳にやって来た。しかし現場は、前年に登られたばかりの難攻不落の岩壁である。救助活動は容易ではないことは彼らにはすぐにわかった。
その夜、関係者一同で作戦会議が開かれた。どうやってふたりを収容するか。なにかいい方法はないか。
「銃でザイルを切断して遺体を落とすのはどうだろう」
いろいろな方法が検討されるなかで、誰かがそんなアイデアを口にした。いやいや、でもそんなこと可能なのか。あまりにも突飛なアイデアだけに、具体的に話し合われることはなく、会議は結論が出ないままに終わった。
ところが翌日21日の毎日新聞朝刊に「谷川岳遭難、自衛隊が銃撃でザイルを切って収容」という見出しの記事が掲載された。作戦会議に同席していた新聞記者が、未決定の事項を配信してしまったのである。
関係者は、記者のとんだ勇み足に大いに憤慨した。ところがこの日、トップクライマーで編成された救助隊が、遭難者の収容に失敗していた。現場は想像以上に厳しいことがわかった。これは銃撃しか方法は残されていないのではないだろうか……。
関係者の気持ちは銃撃に傾き、22日、ついに自衛隊に出動を要請することになった。銃撃でザイルを切断することなど現実に可能なのか、誰もわからないまま。