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ライフル7丁に機関銃2丁、弾薬は2000発を持った47人の自衛隊員が…

 谷川岳の遭難者の手当を積極的に引き受け、「谷川岳のドクトル」として知られた石川三郎医師による望遠鏡での検死が行なわれると、早速23日に、47人の自衛隊員が現場に到着した。携行装備は、ライフル7丁に機関銃2丁、弾薬は2000発に及んだ。

 作戦決行は24日。一ノ倉沢全域を封鎖して登山者の立ち入りを禁止。山岳会や県警が先導して一ノ倉沢に入っていく。自衛隊員47人に加え、警察官40人、山岳会員30人。そのようすを離れて見守る遭難者家族や関係者が200人。さらに、テレビや新聞の記者・カメラマンが100人。世界の山岳史上でもかつてない事態が始まろうとしていた。

 9時15分。衝立岩の基部に位置した自衛隊の銃から1発目が発射された。関係者は固唾を呑んで見守るが、ぶら下がった遭難者は動かないまま。続いて、2発、3発と、ライフル銃がザイルめがけて発射される。銃弾が岩壁に当たって白煙が上がるのが見えるが、やはり遭難者の体は落ちてこない。

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 ザイルの太さは1センチほど。それを百数十メートル離れた場所から撃ち抜こうというのだから、いかに自衛隊の狙撃手といえど容易なことではない。わずか数発で当てられるとは自衛隊も思っていない。

 さらにライフル銃が撃ち込まれる。何発撃ってもザイルは切れず、機関銃を取り出して集中的に銃弾が浴びせられた。それでも切れない。最終的に2時間をかけて1000発もの弾丸が撃ち込まれたが、ついにザイルは切れることはなかった。

谷川岳の慰霊碑には800人以上の名前が刻まれており、まだ余白が残されている

 狙撃隊は射撃を休止した。1000発も打ち込んでもザイルに当てることができないのか。いや、当たった弾もあるはずだ。しかしザイルは空中に垂れているので、銃弾が当たっても弾いてしまうように力が逃げてしまっているのではないか。

 そう考えた狙撃隊は作戦を変更した。空中に垂れている部分ではなく、ザイルが岩壁に接地している部分をねらうのだ。力の逃げ場なく岩壁と銃弾で押しつぶすようにすれば切れるのではないか。

遭難者の体は100メートル以上落下して岩盤で激しくバウンドし…

 12時51分、新しい作戦で射撃が再開された。するとその10分後、再開後38発目でついにザイルは切れた。5日間以上、衝立岩にぶら下がったままだった遭難者の体は、100メートル以上落下して下の岩盤で激しくバウンドし、ようやく止まった。その光景はあまりにむごく、山岳会の仲間たちは目を背けたが、同時に安堵もした。

 25分後、98発目の弾丸でもうひとりの遭難者をつないでいたザイルも撃ち抜かれ、同様に落下していった。こうして約3時間、銃弾1000発あまりを使用した前代未聞の作戦は終了した。

一ノ倉沢周辺に数ある慰霊レリーフ

 この事件はメディアで大きく報道され、社会に衝撃を与えた。すでに谷川岳では遭難死者が続出しており、これをこのまま放置していていいのか。そうした意見を後押しする大きな契機ともなり、登山を規制する「群馬県谷川岳遭難防止条例」の制定にもつながった。1967年に施行されたこの条例は、その前年に剱岳を対象として制定された「富山県登山届出条例」と並んで、行政が登山を規制する法令としては日本で初めてのものとなっている。

 1000発もの弾丸が撃ち込まれた衝立岩は、銃弾でボロボロになり、もはや岩登りなどできないだろうといわれていたが、その後も変わらず登られている。直径1センチにも満たない金属弾を大量に撃ち込んだところで、自然の造形には大した影響はなかったのである。