“七光り”を妬まれいじめられ、芸能界引退へ
――南田さんの“七光り”だと?
山田 はい。段階を踏まずに、主役級の役をふられるのは重かった。山田よう子としてVシネマ『爆乳戦隊パイレンジャー』に敵役で出演したんですが、2ページくらいの長台詞があったんです。「南田洋子の姪だから、できるでしょ?」って言われて、やれて当たり前。NGを出した時に怒られるのも私だけ。私の立場が羨ましい人たちにはいろいろ言われましたね。でも、洋子おばちゃんのレールに乗らないとって必死でした。
――芸名がたくさんあるんですね。
山田 水沢えつという名前で、テレビ番組で嘘ばかりつかされる仕事をしていたこともありました。自分を変えたかったんです。名前を変えたら、変われると思っていたんです。
――お芝居をするのは楽しかったですか?
山田 楽しかったですね。でも、芸能界の裏は――枕って言うんですか? 私はなかったですけど、周りはありましたね。それは幸運ですけど、やっぱり“七光り”でいじめには遭いました。
――南田さんはそのことをご存じでした?
山田 洋子おばちゃんはわかってなかったです。舞台に出演した時、洋子おばちゃんが観に来てくれて、「今度、主演が決まったよ」と言われた瞬間、重く感じてしまって。結局その作品には出演することなく、引退しました。
実家が全焼、離婚した両親を刺そうと考えて
――帰る場所はありましたか?
山田 私が20歳の時、実家が全焼したんです。堀越の制服も、晴れ着も、もう全部燃えちゃって。成人式には、先輩の晴れ着を借りて出席しました。
――ご家族はどうされたんですか。
山田 私が知らない間に、両親が離婚していました。私、親を刺そうと思いましたよ。
――父と母のどちらを刺そうとしたんですか。
山田 両方かな。パパとママが大好きだったのに、知らない間にそういうことが起きていたから。でも、刺そうと待ち構えている時、友達に包丁を隠されたんです。その後、父とは音信不通になってしまいました。
――現在もですか?
山田 有名になったらパパが会いに来てくれるかもと思って、2003年に総合格闘技の試合に出場したんです。そしたら、本当に観に来てくれたけど、私には声をかけず仕舞いで、後から親戚に「パパ来てたよ」って教えられて。
――その後、再会できましたか?
山田 その2カ月後、パパが脳梗塞で倒れて、私が介護することになりました。認知症のような症状が出ていて、水道の蛇口を閉めるように頼んでも水を流しっぱなし、電気を消すように頼んでもつけっぱなしで大変だったけど、それでもパパと離れたくなかった。施設を経て、そのあとパパは亡くなりました。
撮影 佐藤亘/文藝春秋
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