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「決勝直前、熱田神宮のお守りを飲み込んだ」日本女性初の金メダリスト・前畑秀子が抱えていた異次元のプレッシャー「一番でなければ海に身投げも」《長男が語る》

「決勝直前、熱田神宮のお守りを飲み込んだ」日本女性初の金メダリスト・前畑秀子が抱えていた異次元のプレッシャー「一番でなければ海に身投げも」《長男が語る》

3時間前
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1936年のベルリンオリンピックにおいて、200メートル平泳ぎで金メダルを獲得し、日本初の女子オリンピック金メダリストになった前畑秀子。NHKのラジオ中継における「前畑がんばれ!」の実況は有名だが、ではなぜ彼女は「がんばれた」のか。長男の兵藤正臣氏がその理由を語った。

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銀メダルを取っても歓迎されなかった

 母・秀子は、サインを求められると、必ずと言っていいほど色紙に『努力』と『根性』の文字をしたためていました。母は終生この言葉を大事にし、水とともにある人生を送りました。

 母は子供の頃から地元・和歌山の紀の川で練習に励み、小学生で学童日本記録を樹立。早くから頭角を現していました。母から聞かされた話で印象深いのが「水の中で汗をかく」こと。名古屋の椙山女学校(現・椙山女学園)に編入してからコーチにそう教え込まれ、1日1万メートル以上泳ぐなど、水中で汗をかくほどの練習を日課としていたそうです。

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前畑秀子 ©文藝春秋

 昭和7(1932)年のロサンゼルスオリンピックでは、200メートル平泳ぎで銀メダルを獲得し、練習の成果が表われたのですが、意外にも日本国民からは歓迎されなかった。金メダルだったデニスとの差が0.1秒だったこともあり、「なぜ、もっと頑張れなかったんだ」「一番でなければ意味がない」と、厳しい言葉をかけられたのです。

 4年後のベルリン大会では、「負けたら、日本には戻れない」というプレッシャーが原動力になっていたように思います。母はこう漏らしていました。「シベリア鉄道でベルリンに向かっている途中で思った。帰りはパナマ運河を通り、船で日本に帰る。もし、一番になれなければ海に身を投げなくては、と」。そして、決勝レースの直前には、出国前に熱田神宮で祈祷してもらった際に頂いたお守りを飲み込んだ。それほど鬼気迫るものがあったわけです。

 地元ドイツのゲネンゲルとの競り合いを伝えたラジオ中継は、あまりにも有名です。残り25メートルを切ったあたりから、NHKの河西三省アナウンサーの声が熱を帯び「前畑がんばれ、がんばれ、がんばれ!」と連呼する。母がライバルを振り切り一着でゴールすると「勝った、勝った、勝った!」と絶叫。河西さんの、応援のような生々しい実況が、日本人の心を打ちました。

前畑秀子 ©文藝春秋

 日本人女性初の快挙は、ドイツのヒトラー総統からも称えられたといいます。面会を許された母が、五、六人のナチス親衛隊に囲まれている写真を見せられた時は、何とも強烈でした。一方、帰国途中にロンドンやパリなどに立ち寄り、エジプトのピラミッド前でラクダに乗って記念撮影した母の笑顔は、プレッシャーから解放された清々しさに満ちています。