アトランタでの敗北
――1996年アトランタ五輪では200mで10位、100mは予選落ちでした。14歳からの4年間で精神的なもの、肉体的なもの、どちらの変化が大きかったですか。
「まず14歳から18歳というのは肉体的に全然違いました。それまで食べても太らなかったのに、アトランタの前は体重がすごい増えるようになりました。もうバルセロナで感じたようなスイスイと水をつかむ感覚もありませんでした。筋力とか瞬発力とか、そういうものが変化したのかもしれませんが、私はやはり精神的なことが最も大きかったと思うんです。それこそバルセロナの直後は体が変化するとか全く考えず、そりゃあ太るよということもしていました。当時は私なりに普通に学校に行って練習をしてと、今までと変わらない生活をしていたつもりだったんですが、それは全然違って、やはりバルセロナの前は常に競争心を持っていたし、目の前にあることに一生懸命でした。それが金メダル取ってからは、ただこなしてるだけ。記録が落ちるのは当たり前なんです。ただ、ひとつだけわかっているのはアトランタに出られたのはすごく大きかったということ。もし『こんなのやってられない』と投げ出していたら何も起こらなかったし、今の私はないです。スポーツをしていると頑張っても頑張ってもかなわないことが絶対出てくる。それは相手がいることですから。オリンピックで世界記録を出したけど世界記録が2人、3人出るときもありますよね。そうすると、やっぱり1番速かった人だけが称賛される。そういうこともあるじゃないですか」
〈岩崎にはどこかバルセロナの金メダルよりアトランタの敗北を誇っている様子があった。そこに勝敗の不思議がある。メダルの正体が潜んでいる。負けて初めて、岩崎は金メダリストになったのかもしれない。〉
――メダルが金庫から出たのは。
「それが、いつ金庫から出したのかはっきりとは覚えてないんです。ただ、大学生になってから水泳の指導やプール開きイベントなどで金メダルを持ってきてくださいと言われたときは以前とは違う気持ちで持っていけたような気がします。前は見るのも、見せるのも嫌でしたけどやはりメダルを見るとみんな喜んでくれるんです。それなら、という気持ちにだんだんとなっていきました。
姉とのことも、あれは20歳ぐらいのときだったかな……、選手を引退した後、たしかその年の正月だったと思うのですが、部屋で妹と話していたら、姉がいきなりやってきて『私、恭子のせいで水泳やめたんじゃないよ』という話をしたんです。私はびっくりして、え? って(笑)。でもあとから考えると姉もずっと気になっていて、モヤモヤしていたことを解消したかったんじゃないかなと思いました」
――少しずつメダルと向き合い、悩みが解消されていくなか、金メダリストの生きづらさという意味では2009年に結婚されて家族ができて、半減されたりしましたか。
「半分になったかどうかはわからないですけど、やはり娘を授かったことは本当に私の人生で最大のことです」
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本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「岩崎恭子 14歳の金メダリストの『天国と地獄』」)。