東大が京大を激怒させ、謝罪にまで至った「1924年の合同演説会中止事件」。なぜ京大側は激怒したのか? その後、事件はどうなったのか? 甲南大学の尾原宏之教授の新刊『「反・東大」の思想史』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む

写真はイメージ ©getty

◆◆◆

京大が激怒した理由

 ここまで京大側が激怒した理由はなんだろうか。

ADVERTISEMENT

 宮本教授は、東大側が教授を出さないなら出演できないといった。壇上で東大側を糾弾した京大講演部員は、「かくの如き不平等の条件の下に演説会に出づることは到底京大側の肯ぢ得ざる所なり」と吠えた。『京都帝国大学新聞』は「合同演説会は両大学に於て条件を同一にすべきもの」という講演部の主張を紹介している。

 京大側は、自分たちが教授を出しているのに、東大側が学生しか出さないのは無礼だと感じたのだろう。さらに、合同演説会が弁論を競い合う団体戦だとすると、東大の学生3人と京大の教授1人+学生2人の勝負となり、格上の東大が格下の京大にハンデを与えているように映りかねない。京大側はこのことを強く忌避したように見える。

 実際、京大側は合同演説会の「本質的目的」に強くこだわった。彼らにとっての「本質的目的」ははっきりしている。合同演説会とは、スポーツ競技と同じように東大と京大が優劣を競う学校同士の対抗戦だということである。格下として扱われる(ように見える)こと、ハンデを与えられる(ように見える)ことが屈辱だからこそ、京大側は執拗に謝罪を要求したのである。

 やがて事態は沈静化に向かった。東大側が、連絡の行き違いや古在総長と野村部長の対立などについて京大側に丁寧に説明し、理解を得たからである。演説会が中止になったことを陳謝する東大学友会中央部の声明文が10月16日付で発表され、17日には「完全なる問題の解決」と「将来の友誼」を謳う京大講演部の声明文が、18日には東大弁論部による同様の声明文が発表された。