東大と競い合い、ともに成長するライバルとしての役割を期待されて設立された京都大学。そこから生じた対抗意識が、ある事件に発展した過去も…。東大が京大を激怒させ、謝罪にまで至った「1924年の合同演説会中止事件」を、甲南大学の尾原宏之教授の新刊『「反・東大」の思想史』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む

 東大が京大にしつこく謝罪することになった「合同演説会中止事件」とはいったい? ©getty

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東大と京大の対抗戦

 現代において、京大は日本でノーベル賞最多受賞者数を誇る大学であり、東大に対するむき出しのライバル意識やコンプレックスを示すエピソードはあまり耳にしない。むしろ、東大の下に蝟集する首都圏の大学群をよそ目に、東大とは別の高峰として屹立しているというのが一般的イメージではないだろうか。だが、戦前には東大への強烈な対抗意識を丸出しにした局面があったことを、ここで指摘しておいてもよいであろう。

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 1924年、東大・京大あげての交流行事である「東西両帝国大学対抗運動週間」がスタートした。秋の「運動週間」(「スポーツウイーク」)に、東西の帝大運動部の対抗試合を一斉開催する、というイベントである。以前から各部単体での対抗試合はあったが、柔道・剣道・弓術・陸上競技・テニス・野球の試合を一大会で実施するのははじめてだった。第二回目からは、馬術、水泳、サッカーなども加わった(谷本宗生「東西両帝国大学対抗運動週間の実施について」)。

 東大の『帝国大学新聞』は、これを「我運動界未曾有の企」と自画自賛した(1924年10月24日)。東大と京大が交互にホストを務めることになっており、第一回は10月24日から3日間、京都で開催された。

 この大イベントは、「東西学友会連合大会」とも呼ばれた。両大学の「学友会」は、沿革や規約に違いはあるものの、文化系団体を含む全学組織である。運動部の試合だけでなく、弁論部による合同演説会、音楽部による合同演奏会も開かれた。まさに文武両面にわたる東西帝国大学の対抗戦といえる。

 両大学の学生が入り交じっての宴会も盛大に催された。東大の『帝国大学新聞』、京大の『京都帝国大学新聞』両紙とも、好敵手に対する尊敬と親愛の情を十二分に表現しつつ、力を入れてこれらの模様を報じた。そもそも『京都帝国大学新聞』は、この「運動週間」を機に創刊された新聞であった(『京都大学新聞縮刷版』)。

 ところが、「運動週間」によって強固になるはずの両大学の関係に、すぐ亀裂が入った。