東大側は学生3人で、京大側は学生2人と講演部長の宮本英雄教授で演説すればいいだけの話なのだが、なぜ糾弾騒動に発展するのか。実は京大側にとって、これはメンツに関わる重大問題だった。要するに、京大側が教授を出すのに東大側が出さないのは釣り合いがとれない、ということである。宮本教授は「東大側より教授が出演されぬなら自分一人出るわけにはゆかぬ」と出演を拒絶した。宮本の意向を聞くや、京大の学生の態度も硬化し、部長が出ないのに自分たちが出るわけにはいかないと、断固出演拒絶に方針転換したのである。

 演説会を成立させるには東大教授に出演してもらうしかない。ところが当初依頼していた穂積はすでに予定が埋まっていた。東大弁論部長は野村淳治法学部教授だから、野村に依頼すればよいのだが、不幸は重なるもので、野村はちょうどその前日に安田講堂の使用をめぐって古在総長と対立、部長辞任を表明したばかりであった(加藤諭「戦前・戦時期における東京帝国大学の安田講堂利用と式典催事」)。京大の宮本に釣り合う東大教授を出演させることができなかったのである。

東大側は即座に謝罪したが…

 あらゆる譲歩を覚悟したホストの東大弁論部は、開会時刻の1時間前、最後の交渉に臨んだ。

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 すると京大側は「陳謝」をすれば再考してもよいという。東大側は即座に謝罪し、それを受けて京大側は長い協議に入った。結果、聴衆の面前で東大側が京大側に謝罪することなどを条件に、学生2人のみの出演を承諾した。このような交渉と協議によって、開会時間を二時間もオーバーしてしまったのである。

 なんとしても演説会を成立させたい東大側は京大側の要求を丸呑みし、壇上から遅延についての説明と京大への謝罪を行った。だが、前述の通り京大側は壇上で強い不満を表明し、最終的には出演を拒絶して退場してしまう。『京都帝国大学新聞』によれば、東大側の「陳謝」が徹底していないこと、遅延の責任を古在総長に押しつけようとする態度が見られたことなどが理由だという(10月22日)。

 つまり、京大側は東大側に対してしつこく何度も謝罪を要求し、謝罪したら今度は態度が悪いと責め立て、最後は怒って立ち去ってしまったことになる(『帝国大学新聞』11月2日)。

 ここまで京大側が激怒した理由はなんだろうか。