きっかけは、1925年に東京で開催された第二回「運動週間」のオープニングイベント、東大弁論部と京大講演部の合同演説会である。

 合同演説会は、「運動週間」初日の10月16日午後6時に始まる予定だった。会場はこの年落成したばかりの東大安田講堂で、講壇の両側には「ロイドジヨーヂ、ウイルソン、クレマンソー 東法 掛札弘君」などと演題が掲げられていたという。演者は、東大生3人と京大生が2人、最後に京大法学部教授で講演部長の宮本英雄(のち瀧川事件の際の法学部長)が「自己に帰りて」という演説を行って閉会となるはずだった。

 安田講堂には大勢の聴衆が集まったが、開会時刻になっても演説会は始まらない。30分がすぎ、1時間がすぎ、聴衆は開会を求めて拍手を打ち鳴らし、叫び声をあげた。

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 開会予定時刻から約2時間が経過した頃、古在由直東大総長、東大の教授、学友会中央部委員、東大弁論部、京大講演部の面々が姿をあらわした。しかし結局演説会は始まらず、かわりに京大講演部員による東大弁論部の糾弾が始まり、激昂した聴衆によって大混乱のうちに中止が宣言される事態になった。

合同演説会中止事件

 この合同演説会をめぐって、東大弁論部と京大講演部の間には紛争が発生していた。実にささいで馬鹿馬鹿しい紛争である。演説会に学生だけのチームで出場するのか、教授を入れたチームで出場するのか、連絡ミスがあったのである。

 京大側は、東大側との打ち合わせで決まった学生2人+教授1人のチーム編成で上京した。一方、東大側は、当初は京大側が学生3人のチームを希望していたので急遽それを受け入れることにし、電報でその旨を京大側に通知して、学生3人のチームを編成して待っていた。

 ところが、何らかの行き違いでその電報は京大チームの手に渡らなかった。その結果、学生3人の東大チームと学生2人+教授1人の京大チームが弁論を競うことになり、釣り合いのとれない対決になってしまった。

京都大学 ©AFLO

 ただの連絡ミスなので、普通なら笑い話で済みそうである。しかも東大側は、学生同士の対決を希望していた京大側に合わせるため、当初出演予定だった穂積重遠東大教授に陳謝して取りやめてもらっている。京大側に配慮しての急な変更だったのである。