糾弾された「変態的快感」
一件落着に見える。『京都帝国大学新聞』は、「経過がわかつて見れば何でもなくステートメントを出して円満解決」「双方から声明書発表で無事解決」という能天気な見出し文句を掲げた(10月22日)。
だが、そのような後味のよい結末にはならなかった。円満に解決したと思っていたのはもっぱら京大側だったからである。
すでに見たように、東大側は単純な連絡ミスを犯したにすぎなかった。だが、ホストとしての責任から京大側にひたすら平身低頭した。一方、京大側は執拗に謝罪を求め、公開の場で居丈高に責め立て、最後は合同演説会そのものを潰した。親しい関係や尊敬し合う関係においては、まず見られない現象である。内心では非常な不快感を抱いた東大生がいたことは想像に難くない。そのことが露見するのは早かった。『帝国大学新聞』の論説「京大講演部の反省を促がす」(11月2日)は、全文に強烈な怒りが満ちている。
この論説は、演説会中止の責任が当然東大弁論部や学友会中央部にあることを確認した上で、京大側の態度が「相手の弱味」につけこんで「変態的快感」を得ようとするものだったと糾弾する。京大の学生たちが宮本教授の意向で出演拒絶に急転換したことについては、「雅量と理解力に於て惜しい哉無能力者に近かつた一団」の「盲目的なる殉死」と激烈な表現を使った。聴衆を前にしての謝罪要求に関しては、催促されなくても東大側は謝罪するに決まっており、しつこく強要する京大側の「常に高圧的なる嬌慢の態度」は、「彼等の学生たるや否やを疑はしめるに十分」とまで断じた。
また論説は、京大側がこだわった(合同演説会の)「本質的目的」という言葉に強く反応した。
すでに触れたように、京大側は合同演説会を学校同士の対抗戦と捉えている。『帝国大学新聞』の論説は、京大側のその発想自体が問題であることを指摘する。「合同講演会は決して競技会ではなく、その覗ふ効果も他の競技と大いに異つてゐる」。
演説会は、ほかのスポーツ競技とは違い、団体の勝ち負けを競うものではない。ところが京大側は東大に対する「誤つた敵愾心」に突き動かされ、常軌を逸した行動を繰り返した。平身低頭する東大側を踏みつけにすることで「変態的快感」を得るようにさえなってしまった。『帝国大学新聞』が分析する京大側の心理は、このようなものであった。襲いかかってくるライバルの心理分析として、なかなか穿ったところがある。