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 当時、「航空機の護衛なしに水上艦艇が作戦を行うことは不可能」というのは自明のことだった。大和を擁する海軍第二艦隊内でも、特攻作戦が命じられる直前の作戦打ち合わせで「水上部隊をもって最後の突入を企図しても途中において壊滅は必至」とし、水上部隊を解散して人員や兵器弾薬を陸上の戦闘に回した方がよいと結論づけたほどだ。特攻作戦を命じる側も赴く側も「成功の可能性は皆無」と考えていたのに、作戦はなぜ決行されたのか。

 軍令部の及川古志郎総長は戦後、口をつぐみ、作戦を決定した豊田副武連合艦隊司令長官も「当時の私としては、こうするより他に仕方がなかったという以外、弁明はしたくない」としている。防衛庁(現・防衛省)がまとめた公式戦史「戦史叢書(そうしょ)」でも「海上特攻隊に関する経緯については、明確なことを知ることができない」とし、半ばさじを投げた格好だ。

観光客に人気の「大和ミュージアム」(広島県・呉市) ©時事通信社

「陛下に作戦奏上の際……」

 謎を解く鍵はないのか。大和の特攻に関する様々な一次資料を再検証する中、私の中で次第に大きな存在となっていったのが、特攻作戦の渦中にいた三上作夫(1907〜96)という人物だった。三上は戦史叢書などで大和の特攻について証言しているが、多くの関係者が肝心な部分をはぐらかしたり、自己弁護に汲々としたりしている印象を与える中、三上の言葉にはそうした作為が感じられず、自分が知る限りのことを後世に伝えよう、という意志が明確に感じられたのだ。

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 私は三上と対話するようなつもりで、彼の証言や手記を改めて丹念に読み返していった。そして、三上が70年に海軍兵学校同期生らの回顧録に寄せた「大和特攻作戦の経緯について」という手記に再び目を通していた時、これまでは何げなく読み飛ばしていた一節に目が釘付けになった。そこにはこう記されていた。

「四月突如神先任参謀より次の連絡があった。『本日軍令部総長が陛下に作戦奏上の際、海上部隊の作戦能力について御下問があった。総長は恐懼(きょうく)して御前を退下し、只今(ただいま)軍令部と作戦に関し打合せ中であるが、大和部隊の沖縄突入作戦が計画されることになるであろう』と」

 戦艦大和の特攻出撃に天皇の言葉が影響を与えた可能性は以前から指摘されてきた。

 元乗組員で戦記文学「戦艦大和ノ最期」著者の吉田満らは1975年、「日米全調査戦艦大和」(現タイトル「ドキュメント戦艦大和」)をまとめている。そこには、米軍が沖縄に上陸する直前の45年3月29日、軍令部総長の及川古志郎が沖縄戦で「航空特攻を激しくやる」と天皇に説明したところ、「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」とのご下問があり、及川は恐懼して引き下がった、とある。吉田らはこうした経緯が大和特攻の「伏線」となった可能性を指摘する。

 しかし、三上の手記は、作戦打ち合わせのために鹿児島県・鹿屋に出張中、横浜市・日吉の連合艦隊司令部にいた先輩参謀・神重徳から「本日ご下問があった」との連絡を受けたのは「四月」としている。しかも前後の文脈から判断してここは「四日」の誤記か誤植である可能性が高い。

 大和など水上部隊の沖縄特攻作戦が決まったのは、4月5日だった。「ご下問」が3月29日にあり、それをきっかけに大和特攻の検討が始まったのであれば、海軍最後の主力艦を使うこの作戦が決まるまでに要した期間は、1週間。これでも短すぎると思えるが、ご下問が4月4日だとすれば、わずか1日で特攻が決まったことになる。細部について検討する余裕などまったくなく「ただ、敵のただ中へと突っ込むだけ」という作戦にならざるを得なかったはずだ。

 合計10隻の艦に乗り込んだ、約7200人を死地へと赴かせる作戦。その決定過程としては、あまりに早すぎ、あまりにもずさんではないか。