「昭和天皇実録」にも3月29日面会の記録はない
「3月29日」説の根拠とされる「太平洋戦争日本海軍戦史」(第二復員局編)の内容を確認したが、昭和天皇と及川との儀礼的なやりとりが書いてあるだけで、「艦はないのか」という肝心の言葉はなかった。宮内庁がまとめた「昭和天皇実録」にも、29日に天皇が及川と会った記録はない。
私は三上の手記の「四月」が、「四日」の誤記・誤植であるという確証を得ようと、宮内庁に45年4月前後の「実録」に引用されている史料をすべて情報公開請求したが、新たな事実は得られなかった。取材が暗礁に乗り上げそうになった時、私は東京都・市谷の防衛省防衛研究所で、元海軍参謀・大井篤の残したノートを見つけた。大井は旧海軍・海上自衛隊の親睦団体「水交会」で、旧海軍軍人らの話を聞く座談会を主宰していた。ノートには88年に三上を座談会に招いたことが記され、「沖縄特攻」と朱筆されたページもあった。三上はここでも、大和の特攻について語っていたのだ。
大井の筆跡は極めて分かりづらく、ノートに記された証言の内容も断片的だったが、辛うじて「及川総長への天皇が……」という一節が読み取れた。この場で三上が「ご下問」について語っていた可能性は高い。私は藁にもすがるような思いで水交会に問い合わせたところ、「当時の録音テープは現存しているが公開はしておらず、聴くには遺族の許可が必要」との回答だった。
30年近く前に亡くなった人の遺族をどうやって探せばよいのか。途方に暮れかけたが、東京都・千代田区の靖国神社近くにある「昭和館」の図書室で、三上が自らの近況や住所、家族構成などを記している海軍兵学校の同期生誌を発見した。その住所に連絡を取ってみると幸運なことに、そこには三上の長男である隆夫さん夫婦が今も暮らしていた。
私は隆夫さんあてに録音を聴く許可をお願いする手紙を書き、これまでに執筆した「大和」と「ヤマト」についての記事と共に送った。
《「……作戦の決定過程について多くの関係者が口を濁しているのに対し、ご尊父はご自身の知る範囲のことを一切の自己弁護なく簡潔かつ明瞭に述べられており、もっとも信頼に値する証言と考えています」「ご尊父は『当時は、国家に対して忠誠をつくす、国民として団結し民族のために命をかける、というのが当然の務めであり、負けたあとのことなど考えていなかった。そうした環境を踏まえた上で判断すべきであって、今の民主主義だけを基盤にして、国家の存亡を双肩に担った人々をいろいろ批判しても、当時の真相は分からない』と述べられています。私も記事を書くにあたっては、ご尊父の言葉を胸に刻み、同胞のために命懸けで戦われた方々の心に最大限寄り添い、現代の視点から安易な批判を行うことは厳に慎む所存です……」》
数日後、取材中だった私の携帯電話が鳴った。隆夫さんからだった。
三上の肉声「そこで神さんがもう急きょ、大和の特攻を考えた」
そして今年3月、東京都・神宮前にある水交会事務局の大和の油絵が飾られた一室で、事務局長の立ち会いの下、私は三上の肉声を聴いた。証言時の三上は81歳。ややしわがれているが明瞭な声と落ち着いた口調は私が思い描いていたイメージそのもので、初めて聴く気がしなかった。私は三上と直接対峙しているかのような錯覚に陥りつつ、彼の言葉に耳を傾けた。