太平洋戦争で日本の敗北がすでに決定的となっていた1945年4月。連合艦隊参謀・三上作夫は、海軍航空部隊の前線基地がある鹿児島県・鹿屋にいた。

 三上は当時37歳。的確な戦況分析と沈着冷静な性格を買われて44年9月、連合艦隊参謀に抜擢されたエリートだった。三上は参謀として水上部隊の作戦立案を担当しており、連合艦隊に残された事実上唯一の主力艦である戦艦大和の運用に腐心する立場にあった。

「海軍にもう艦はないのか」とのご下問

 米軍は4月1日に沖縄に上陸するや戦略上の重要拠点である北・中両飛行場を占領した。敵が両飛行場を本格的に使い始めれば沖縄の制空権は奪われ、勝敗の帰趨は決してしまう。しかし、前年10月のフィリピン・レイテ沖海戦で惨敗した連合艦隊はほぼ壊滅しており、残された有効な攻撃手段は航空特攻しかなかった。三上は2日から、上司の草鹿龍之介参謀長と共に、横浜市・日吉の地下壕にあった連合艦隊司令部から鹿屋へと出張。3日、現地航空部隊との打ち合わせの結果、訓練中のパイロットを含む航空兵力の総力を挙げて沖縄方面の米軍艦艇に特攻を行う「菊水一号作戦」を決定したところだった。

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 4日、連合艦隊司令部と鹿屋基地をつなぐ直通電話が突然鳴った。連絡役を務めていた三上が電話を取ると、レイテ沖海戦の作戦を立案した神重徳参謀の緊迫した声が響いた。

「本日、軍令部の及川古志郎総長が菊水一号作戦について奏上した際、陛下から『航空兵力だけの総攻撃か』『海軍にもう艦(ふね)はないのか』とのご下問(質問)があった。及川総長は恐懼して御前を引き下がり、現在作戦について協議中だが、大和部隊の沖縄突入作戦が計画されることになるだろう」

 水上艦艇の作戦担当参謀である自分がまったくあずかり知らぬ所で突然浮上した「寝耳に水」の大和特攻作戦に、三上は呆然とした——。

庵野秀明監督もヤマトに言及

 上記の記述は、2年近くにわたる取材の末に発掘した三上の録音証言などを元に、戦艦大和の特攻作戦が決まった当時の状況を再現したものだ。

 私は2014年以来、朝日新聞の紙面で戦艦大和、そして戦後によみがえった大和の幻影とも言うべき「宇宙戦艦ヤマト」について数々の連載記事を書いてきた。現在は戦後80年に向けてそれらを書籍化する作業を進めている。

 対米戦争勝利の切り札として建造されたが、実戦ではほとんど何の戦果も挙げることができず、最後は特攻作戦で空しく沈んでいった大和——。そのさして長くない生涯それ自体が「日本人にとっての太平洋戦争」の象徴と言える。そして映画監督の庵野秀明氏は「宇宙戦艦ヤマト」について「戦争に負けた国でしか生まれない作品だと思います」「当時の人々の……太平洋戦争に対する無念さ、口惜しさ、空しさ、悲しみ、怨念、そして願望等が塗り込められた作品だと思います」としている。

 私自身、子供の頃から大和とヤマトに強く憧れてきたが、その根底には庵野氏が指摘するような、日本人として無意識のうちに受け継いだ先の戦争への言うに言われぬ思いやトラウマが潜んでいたと感じる。「大和とヤマト」は戦争を知らない世代である私たちに、先の戦争で戦い敗れた人々の思いを伝える「メディア」としての役割を果たしてきたのではないか。「大和とヤマト」について考え、書くことは「先の戦争で私たち日本人を誤らせたものは何か」「敗戦で日本人が被ったトラウマとは何か」を明らかにすると同時に、それを自覚し乗り越えることによって、本当の意味で「戦後」を終わらせることへとつながる——。私はそう確信している。

 そして大和について語る時に避けて通れないのが1945年、沖縄戦のさなかに行われた水上特攻作戦だ。4月6日、大和を主力に軽巡洋艦や駆逐艦計10隻が沖縄に向け出撃したが翌7日、鹿児島県坊ノ岬沖合で米軍艦載機の約2時間にわたる猛攻を受け、大和など6隻が沈没。戦争中の航空機による特攻の全戦死者数に匹敵する約4000人の戦死者を一度に出したが、戦果はほぼ皆無だった。