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「4月の4日に神さんから私のところに電話があって、及川(古志郎軍令部)総長が陛下に奏上した時に、陛下が『もう海軍には艦はないのか』と言われたと。それで及川さんが恐懼(きょうく)して御前を下がって、それが軍令部から連合艦隊にも伝えられて、そして、そこで神さんがもう急きょ、大和の特攻を考えたと」

 やはり、三上が「ご下問があった」と証言しているのは、従来の通説だった「3月29日」ではなく、「4月4日」だった。連合艦隊司令部が大和の部隊に特攻を命じたのは4月5日だから、大和の特攻作戦はご下問からわずか1日で決まったことになる。ご下問は、吉田満らが言うような「大和特攻の伏線」などではなく、大和特攻の直接のきっかけになったと考えるのが妥当ではないか。

「昭和天皇実録」にも、天皇が4日に及川総長と会った記録がある。そしてこの仮説は、鹿児島県・鹿屋の第5航空艦隊司令長官・宇垣纏(まとめ)が、大和が沈没した4月7日付日記に書いた「そもそもここに至れる主因は、軍令部総長奏上の際、航空部隊だけの総攻撃なるやのご下問に対し、海軍の全兵力を使用いたすと奉答せるにありと伝う」という記述ともよく一致する。宇垣は当時、鹿屋に出張していた三上か草鹿から直接経緯を聞いたのだろう。

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 海軍は3日、航空特攻を徹底して行う「菊水一号作戦」を決めた。翌4日、及川総長が天皇にこの作戦を説明した際に、海上部隊の運用に関するご下問があり、それを重く受け止めた海軍首脳が急きょ大和の特攻作戦を検討・決定した——。そう考えると、「成功の可能性が皆無の水上特攻作戦がなぜ突然決まり、即座に実行されたのか」という謎が一挙に解ける。

米軍機の攻撃を受け回避行動をする戦艦大和(米海軍歴史センター提供) ©時事通信社

昭和天皇の焦慮は頂点に「現地軍はなぜ攻勢に出ぬか」

 昭和天皇の「艦はないのか」というご下問の真意についても、従来は「何げなく聞いただけだろう」との見解が一般的だった。米軍が沖縄に上陸する前の3月29日だったとすればそう解釈しても問題ないだろうが、沖縄で激戦が展開中の4月4日だったとすれば、発言のニュアンスはまるで異なってくる。

 沖縄戦時の天皇は「一撃講和」論者だった。背景にあったのは、連合国側が日本を無条件降伏させることをうたった43年12月の「カイロ宣言」だ。仮に日本が無条件降伏をさせられれば国体、すなわち天皇制の崩壊にもつながりかねない。それを避けるには沖縄戦で敵に大きなダメージを与えた上で、少しでも有利な条件で講和を結ぶしかない——。そんな思いがあったとされる。

 しかし、米軍は4月1日に沖縄に上陸し、現地の陸軍第32軍は戦略上の重要拠点である飛行場の占領を許してしまう。この時期、昭和天皇の焦慮は頂点に達し、4月3日には陸軍参謀総長に「現地軍はなぜ攻勢に出ぬか」「逆上陸もやってはどうか」と自ら積極攻勢を提案。翌4日、大本営陸軍部は32軍に天皇の憂慮を伝え、飛行場奪回を要望している。天皇の意向が直接、陸軍の作戦決定に影響を与えたことになる。

 天皇は海軍についても艦隊の編制権を持っており、戦況についても逐一報告を受けていた。連合艦隊に残された主力艦はもう大和しかないことを知っていたと見て間違いない。4月4日に「航空兵力だけの総攻撃か」と尋ねたとすれば、それは言外に「大和を何とか活用できないのか」と尋ねているに等しいし、昭和天皇の陸軍への厳しい姿勢を横目で見ていた海軍首脳も、その言葉を重く受け取らざるを得なかったのではないか。

 三上自身にそうした意図はまったくなかっただろうが、彼の証言は結果的に、大和の特攻が決定されるにあたって昭和天皇の与えた影響について、従来の通説を覆したことになるのだ。

 本稿の全文は「文藝春秋 電子版」で読むことができます。