第二次世界大戦では、少なからぬアスリートがその命を落とすこととなった。日本人初のオリンピック水泳代表選手、内田正練の生涯に迫る。

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日本にクロールを広めた男・内田正練

 内田正練(まさよし)は明治31年(1898)1月7日、静岡県の雄踏町(現・浜松市)にて生まれた。

 内田は浜松一中で水泳部に所属。日本泳法の一つである「水府流太田派」を学び、数々の大会で優秀な成績を収めた。大河ドラマ「いだてん」で有名になった新聞記者の田畑政治とは、共に水泳に打ち込んだ仲である。大正3年(1914)に大阪毎日新聞社が開催した第1回中等学校連合水泳大会では、400メートル自由形で優勝した。

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内田正練

 大正5年(1916)9月、内田は北海道帝国大学(現・北海道大学)の予科に進学。大正6年(1917)に東京で行われた第3回極東選手権大会では、中国やフィリピンの有力選手を抑え、220ヤードと880ヤードの種目で優勝。当時、「極東オリンピック」と呼ばれた同大会での活躍により、内田の名はアジア各地へと知れ渡った。当時、北大で教授を務めていた青葉萬六は、内田についてこう述懐している。

〈同君(引用者注・内田)も亦(また)切に技術練磨に不断の工夫を凝らして寒地練習に恵まれざる欠点を補った。皮膚を絶えず水に慣らすために秋の季節から毎朝冷水摩擦をなし、冬季スキーの練習や柔道の寒稽古をつづけて腿や脚の筋力を緩めないように注意し兼ねて体力を補った〉(『北大水泳部15周年記念誌』)

 大正9年(1920)、横浜で行われたオリンピック国内予選において、内田は200メートルと400メートルで優勝。ベルギーのアントワープで開催されるオリンピック大会への出場を決めた。日本がオリンピックに水泳の代表選手を派遣するのはこれが初めてのことであった。内田は「日本人初のオリンピック水泳代表選手」となったのである。

©GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 アントワープの地を踏んだ内田は、100メートル自由形と400メートル自由形に出場。「日本泳法」で全力を尽くしたが、いずれも予選で敗退した。

 内田がこの時に痛感したのは、伝統的な日本泳法の限界だった。外国人選手が用いていたのは、日本ではまだ馴染みの薄い近代クロール泳法だった。内田は近代クロールの基本的な技術を習得してから帰国。以降、競技者から指導者に重点を移し、近代クロールの普及に努めた。日本泳法の優位性を説く者が多い中で、内田は近代的な泳法を日本に広める役割を担った。