その後、日本の水泳界は飛躍的な進歩を遂げた。内田は「水泳ニッポン」の土台を作った功労者の1人と言える。

 大正10年(1921)、結婚。大正11年(1922)、大学を卒業した内田は、北海道拓殖銀行に就職した。しかし、その業務を通じて、借入金の返済に苦しむ農家などの実態を知った内田は、自分の仕事を「弱い者いじめ」と感じ、退職を決意。その後は、いくつかの職を転々とした。

 昭和7年(1932)、内田は妻子と共にアルゼンチンに移住。ブエノスアイレスの郊外で、リンゴなどを扱う大規模農園を営んだ。内田は元来、「チャレンジ精神旺盛な性格」だったと伝わる。オリンピックの出場経験が、柔軟な国際感覚を育んだ面もあったかもしれない。

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 昭和16年(1941)、日本にいた内田の母が死去したことを契機に、一家は帰国。同年12月、真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった。

 戦時下の内田は、ビルマ(現・ミャンマー)に渡った。日本はイギリス領だったビルマの独立を支援するため「南機関」と呼ばれる特務機関を組織していたが、これを率いていた鈴木敬司陸軍大佐は内田と中学時代の同級生であった。この鈴木から協力を頼まれた内田は、ビルマ入りして南機関に参加したのである。

ニューギニアで奔走

 内田は物資の調達などの分野で活躍したが、とある渡河作戦中、巧みな泳ぎで対岸まで渡り、周囲を驚かせたこともあったという。

 昭和17年(1942)3月、南機関はビルマ独立義勇軍と共にラングーン(現・ヤンゴン)入り。ビルマ人たちの歓喜と熱狂に迎え入れられた。しかし、地元民の独立への期待虚しく、その後に敷かれたのは日本の南方軍による軍政であった。独立を主張する南機関は解散を強いられ、内田も無念の思いを抱えたまま帰国することになった。

 昭和19年(1944)4月、内田は今度はニューギニア(現・パプアニューギニア)に渡り、行政担当者として農地の開墾や食糧の調達といった仕事に奔走した。

パプアニューギニア・ラバウル ©Simo.jp/イメージマート

 だが、やがてニューギニアも激戦の地となった。毎日のように米軍の苛烈な空襲に晒され、犠牲者は日を追うごとに増えていった。ニューギニア周辺の制空権と制海権を失ったことにより補給も断たれ、餓死者が続出する惨状へと陥った。さらにマラリアなどの感染症の蔓延も深刻だった。内田の母校である浜松一中の記念誌には、次のような記述がある。

〈転進、敗走で、栄養失調でばたばたと倒れる中で、皆から慕われた彼(引用者注・内田)は、食糧を勧められたが、将来ある若い人にあげてくれ、と固辞して受けず、ニューギニア島サルミの名もない山中で遂に倒れた〉(浜松一中・浜松北高100周年記念人物誌『友垣百年』)

 水泳で鍛えられた内田の筋骨隆々とした身体は、すっかり痩せ細っていたという。

 昭和20年(1945)2月14日、内田は47年間の生涯を閉じた。餓死だったとされる。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「戦場に消えた六人のオリンピアン」)。