東京・恵比寿の日本料理店「賛否両論」は2024年で開業20年目を迎える。その華やかな成功の陰には、母・父、妻を失った壮絶な苦しみがあった。ここでは『賛否両論 -料理人と家族-』(主婦の友社)より一部抜粋し、亡き父との思い出を振り返る。(全2回の前編/続きを読む)

撮影 榎本麻美/文藝春秋

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 僕が料理人になったのは、親父の存在が大きい。

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 高校1年から2年になる直前の春、お袋が亡くなって、親父が毎朝弁当をつくってくれていた。

 店の余りものをタッパーにぎゅうぎゅうに詰めて持たせてくれて、焼き鳥、つくねの照り焼き、鶏の唐揚げなんかがごはんの上にのっていて、まっ茶色で、食べるころにはいろんな味が染みているのがまたうまかった。

 親父の弁当を食べていたのは、半年くらいだろうか。

撮影 榎本麻美/文藝春秋

 そのころの僕は、お袋が亡くなった寂しさを紛らわせるために、勉強もせず友だちと遊んでばかり。とくにグレていたというわけではないけれど、学校を抜け出してラーメンを食べに行くのがかっこいい時代だったこともあり、親父に向かって「もう弁当はいらない」と言ってしまった。夜遅くまで働いている親父に、早起きをさせるのはわるいな、という気持ちも大きかった。

 高校3年で進路を決めるとき、僕はパティシエになろうかな、と考えていた。お袋からは「これからの時代、大学には行きなさい」と言われていたけれど、大学に進学してとくにやりたいこともなかったし、学校の成績は散々なものだった。

 当時、僕の部屋には高校生にしては珍しくオーブンレンジがあって(高校生でなくても珍しいと思うが)、ひまがあればチョコレートケーキなんかをせっせと焼いていた。

 そんなとき、たまたまテレビで「パティシエ世界選手権」なるものがあると知り、衝撃を受けた。飲食の世界にもワールドカップがあるのか。「日本代表」という響きに痺れた。