父にパティシエを目指そうと思っていることを伝えると
親父にパティシエを目指そうと思っていることを伝えると、
「おう、いいじゃないか」
自分がやりたい仕事をやれ、というのが親父の考え方だ。だけど僕には、パティシエにはどうやってなればいいのか皆目わからず、再び親父に相談した。
「日本料理だったら紹介できるぞ。どうせやるなら、厳しいところに行ってこい」
僕も、どうせならすごいところに行きたい、と思った。
それが、新宿の日本料理店だった。
「板前は、10年修業しないとだめだ」
親父はそう言って、僕を送り出した。
18歳で板前の修業を始めた僕は、親父の教えのとおり、10年を目標に掲げた。
途中、えーりーと出会い、結婚して、長女が生まれたとき、僕は26歳になっていた。目標まで、あと2年。
えーりーと結婚する前、勤め先から誰かひとり、アメリカの日本大使館に行かないか、という話があった。僕のなかには若いうちに海外で仕事をしたいという希望があり、「めちゃくちゃ行きたいです」と立候補したが、残念ながら素行がわるかったせいで、同期の板前が行くことになった。
もしあのとき、アメリカに行っていたら、僕の人生はまた違うものになっていたのかな、とたまに思う。でも、僕は行かなかった。運命とは、一体なんなのだろう。
修業時代、僕の頭のなかのメインにあったのは、いずれは親父と一緒に「とり将」のカウンターに立ち、店を継ぐことだった。修業7年目や8年目くらいの僕にも、料理長をやらないか、という話が舞い込んだりして、話だけ聞きに行ったこともあったが、そのうち長女が生まれ、店でも上の立場になっていたこともあり、10年よりもう少しここにいようかなという気持ちが生まれていた。
そんなときだった。
親父が病に倒れたのは。
撮影 榎本麻美/文藝春秋