“ジャニー伝説”の綻び

 リサーチを始めるとすぐに、いわゆる“ジャニー伝説”の綻びに気がついた。そもそも、ジャニー喜多川をジャニー喜多川たらしめた武器は、「アメリカ生まれ、アメリカ育ちのアメリカ人」というプロフィールだった。荒廃した敗戦後の日本で彼がのし上がった背景には、日本人が知らない本当のアメリカを知る人物という物語が常に横たわっていた。

 本人もたびたび、「僕の場合は、幼い時から見続けてきたミュージカルとかハリウッド映画が既にレールを敷いてくれてる」(「SPA!」90年7月4日号)といった発言をすることで伝説を華麗に紡いだ。

 マスコミも同様だった。いくつか例をあげてみたい。たとえば、以下はジャニーがマスコミに登場し始めた頃の「週刊サンケイ」の記事(65年3月29日号)。

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「(喜多川氏の)父のタイゾー・喜多川氏(ママ)は真言宗の開教師で、戦前アメリカに渡って布教につとめた。こどものメリー、ジャニーのふたりは、アメリカで教育を受けた二世である」

 こうした報道はその後も続き、約30年後には、講談社の硬派誌「現代」がこんな原稿を載せている。

「思春期を、戦時中にもかかわらず溢れるほどの物資に恵まれた米国本土で、一流エンタテインメントの洗礼を全身全霊で受け止めながら過ごした」(97年1月号)。

 本人の死後も神話は再生された。

「幼少期から日本とアメリカを行き来して双方の文化を吸収して育ったこと、それがその後の彼の創造性にきわめて大きな影響を及ぼしたことは間違いない」(「芸術新潮」2022年6月号)

 ところが実のところ、彼がアメリカで暮らした歳月はほんの5年前後にすぎないのである。

 ジャニー喜多川が、ロサンゼルスで生まれたのは31年(昭和6)10月23日。だが、そのわずか1年10カ月後の33年(昭和8)8月26日に一家は揃って日本に引き揚げている。ロサンゼルスの日系新聞、『羅府新報』から出発前日の記事を引用する。

「喜多川諦道師は愈(いよいよ)明日午後四時出帆の秩父丸に乗船、家族同伴帰朝の途に上る事となった。……故国の教化界に入って活動する事となったのである」

 出国時、2歳未満だったジャニーに、幼児期アメリカの記憶はおそらくなかったろう。

 そして、その後、再び彼がアメリカの土を踏むのは、第二次大戦後の49年(昭和24)11月24日。実に16年後のことだった。

 ところで、これに関して、旧ジャニーズ事務所が設置した「外部専門家による再発防止特別チーム」の調査報告書は、「1947年」と記している。しかし、これは誤りだ。やや執拗と思うが、その根拠を述べたい。なぜなら、元検事総長を座長に持つ同チームの調査報告書は、現在、多くのメディアが依拠するところとなっているからだ。

 まずは、真言宗寺院向け雑誌、「高野山時報」49年11月号の近況欄より。

「本宗関係者で年内に渡米する人……喜多川諦道師の子供さん等四五名に達す」

 次に、『羅府新報』49年11月22日付。見出しの「ゴードン号 来る二四日入港」に続いて「上陸する日系人船客は左の九十三名」とあり、「北川安子、北川弘」と、誤字ながら姉弟の名が見られる。

 翌50年にも、真言宗の専門誌「六大新報」1月号に以下の短文が掲載された。

「喜多川諦道師(大阪市在住) 長女泰子、長男眞一、次男擴の三君は昨年十一月渡米」

 極めつきは、49年11月24日の米司法省移民帰化局の入国書類で、「Yokohama」発「SS“GENERAL F. H. GORDON”」の乗船客リストに「KITAGAWA, MARY YASUKO 21」と「KITAGAWA, HIROMI 18」の名がある。HIROMIは擴の聞き取り違いだろう。数字は年齢を示す。ジャニーは、この時すでに18歳になっていた。

真言宗の専門誌「六大新報」50年1月号より

 さて、16年ぶりにアメリカに戻ったジャニーだったが、翌年6月に朝鮮戦争が勃発。米国籍の彼は、米軍人として戦地に送られた。その上、53年7月の休戦後も、彼はアメリカに戻らず中継地点の日本に留まった。そして結局、亡くなるまで日本に永住したのである。

 ジャニーの米軍入隊日は不明だが、作曲家の服部良一(1907~1993)は、50年(昭和25)9月初旬のロサンゼルス興行時に、現地にいたジャニーに出会っている。したがって、この事実を鑑みれば、2度目の滞米期間は長くて3年8カ月、短ければ9カ月ということになる。幼児期と合わせても2年7カ月から5年半——これが、ジャニー喜多川の全アメリカ生活なのだ。「アメリカ生まれ、アメリカ育ちのアメリカ人」というより、少々長めの留学や赴任といったほうがふさわしい。

 大島さんらにこうした事実を伝えると、3人は互いの顔を見合って驚きの声を上げた。

「マジっすか! それじゃ、ほぼほぼ日本人じゃないですか」