「打倒・おニャン子」を目指して制作された、小泉今日子の80年代の代表曲『なんてったってアイドル』。作詞に秋元康、作曲に筒美京平を迎えたこの曲は当時、どれほど斬新だったのか? 構成作家のチャッピー加藤氏による小泉今日子の研究本『小泉今日子の音楽』(辰巳出版)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

紅白には筋肉ムキムキ「脳みそムキ出しスーツ」で登場…『なんてったってアイドル』はどこが斬新だった? (画像:Amazonより)

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秋元康は「アイドルの偏見」を吹き飛ばしてくれることを期待

 とんねるずは1984年12月、ビクターから『一気!』をリリースし、オリコン最高19位を記録。それ以前に別のレコード会社からアニメ主題歌と企画物のシングルを2枚出している

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 が、本格的なブレイクは、この『一気!』からである。

『一気!』の作詞はとんねるずのブレーンでもあった秋元であり、担当ディレクターは田村Dだった。とんねるずはその後も『青年の主張』(1985年4月、オリコン最高15位)、『雨の西麻布』(1985年9月、同最高5位)、『歌謡曲』(1986年1月、同最高2位)とヒット曲を連発。いずれも田村D担当・秋元作詞で、田村Dにとって秋元は“敵将”ではなく、一緒に面白い曲を作っていく“同志”だった。

 また秋元は、田村Dが小泉の担当になった直後に、新曲の作詞を依頼した1人である。

 A面は康珍化の『まっ赤な女の子』に譲ったが、秋元が書いた『午後のヒルサイドテラス』はB面に収録され、その後も秋元は小泉のアルバムに詞を数作提供していた。

 小泉のシングルA面を書くのはこれが初めてだったが、おニャン子に負けない強い詞を書けるのはたしかに、当時ノリにノッていた秋元しかいなかった。

 なお本曲のタイトルはCMスポンサーの富士フイルムによる一般公募が行われ、田村Dは応募作の中から、秋元とすり合わせていたイメージにぴったりの「なんてったって」というワードを選択。これをもとに、秋元は詞を書き進めていった。

 既存のアイドルが、おニャン子の登場によって存在が危うくなってきたときに(しかもそれを仕掛けたのは秋元自身なのに)「アイドルって素晴らしいんだ!」とアイドル自身が全肯定する詞を書いた秋元。「所詮、大人の操り人形でしょ?」とアイドルの存在自体が低く見られていた状況には疑問を感じていたという(松永良平『コイズミシングル 小泉今日子と50のシングル物語』)。

 小泉ならきっと、そんな偏見を吹き飛ばしてくれるに違いない。秋元は期待を込めて、どこにも忖度しない振り切った詞を書いた。当然、事務所NGが出るだろうと思っていたら、なんと通ってしまったのである。実は、事務所の社長には猛反対されたが「このままの歌詞じゃないと意味がないんです!」とスタッフが説得してくれたのだ。

 田村Dはさっそく、秋元の詞を持って筒美のもとへ。「何、これ?」と言われたが、「いやいや、先生、絶対ウケますから」とお願いすると、自由奔放な詞の世界にぴったりハマった、軽快なロックンロールが返ってきた。

 しかも、秋元が最初に書いた詞は普通にAメロから始まっていたが、筒美はサビの「なんてったってアイドル」を冒頭に持ってくるよう提案。強いワードは前へ。秋元の尖った詞をさらに引き立たせる演出に、田村Dも秋元も思わず唸った。