町工場を営む家の次女として生まれ、当時32歳の主婦だった諏訪貴子さん(53)は、先代の後を突然継ぐことになった。亡くなる直前、父・保雄さんは病院のベッドで苦しみながらも、貴子さんの目を見つめてこう言ったという。
「頼むぞ」
ここでは、その後の貴子さんが社業を復活させ「町工場の星」と言われるまでの10年の軌跡を振り返る『町工場の娘 主婦から社長になった2代目の10年戦争』(日経ビジネス人文庫)より一部を抜粋。社長就任後に早速ぶつかった"ある事件"とは――。(全2回の1回目/続きを読む)
◆◆◆
取引銀行の支店長から「お前、本気で頑張らなきゃダメだぞ」と言われ…
社員や取引先に後押しされ、私は2004年5月にダイヤ精機の2代目社長に就任した。
だが、その矢先、出鼻をくじかれる“事件”が起きた。
社長就任を決め、姉とともに取引銀行に挨拶に行った時のことだ。
「私がダイヤ精機の社長になります。今後ともよろしくお願いいたします」
そう告げた瞬間、支店長の態度が変わった。
「社長? 大丈夫なのか? あのな、お前、本気で頑張らなきゃダメだぞ」
「お前……?」
その言葉を聞いて一気に頭に血が上った。
「ちょっと待って。なんでわざわざ挨拶に来たのに『お前』呼ばわりされなくちゃいけないんですか。失礼でしょう。冗談じゃない。ああ、もうやめた、やめた! 社長なんてやめた!」
席を立とうとした私を姉が慌てて止めた。
「まあ、まあ待って。ちょっと落ち着いて。支店長さんは悪意があって言っているわけじゃないんだから。『これから大変だけど頑張れ』と励ましてくださっているのよ」
私はそっぽを向いて黙ったままだった。
私たちはその日、銀行に父の社葬の手伝いを依頼するつもりだった。
父はダイヤ精機社長というだけでなく、東京商工会議所の大田支部会長も務めていたから、葬儀には大勢の参列者が来ることが予想された。ダイヤ精機の社内に社葬を取り仕切るノウハウはなく、人員も不足している。唯一、頼れるのが取引銀行だった。
険悪なムードが漂う中で、姉はその場を必死で取りなし、憤然とする私の横で支店長に社葬の手伝いを依頼していた。何とか引き受けてもらうと、早々にその場を立ち去った。
その後、銀行に出向く機会はなく、支店長とも顔を合わせることのないまま、社葬当日を迎えた。
京浜急行平和島駅近くの斎場に行くと、既に銀行のスタッフが受付に就いて弔問客を出迎えてくれていた。先日、ケンカした支店長が受付の真ん中に立って部下に指示を出しているのが見えた。
気まずい思いで一瞬足が止まった。だが、支店長は私に気付くとさっと駆け寄ってきて深々と頭を下げた。
「社長、このたびは大変ご愁傷様でした。本日はできる限りのことをさせていただきます。どうぞお任せください」
完璧な挨拶。「負けた」と感じ、悔しかった。
「今日はお手数をおかけして本当に申し訳ありません。どうぞよろしくお願いいたします」
精一杯、そう返した。
父の突然の死から1カ月余り。「悲しい」と感じることすらできない怒濤の日々を過ごしていた私だが、その日、父の好きな青色の花で埋め尽くされた祭壇の遺影を見て初めて「父が亡くなってしまった」ことを実感し、涙がこぼれた。