町工場を営む家の次女として生まれ、当時32歳の主婦だった諏訪貴子さん(53)は、先代の後を突然継ぐことになった。亡くなる直前、父・保雄さんは病院のベッドで苦しみながらも、貴子さんの目を見つめてこう言ったという。

「頼むぞ」

 ここでは、その後の貴子さんが社業を復活させ「町工場の星」と言われるまでの10年の軌跡を振り返る『町工場の娘 主婦から社長になった2代目の10年戦争』(日経ビジネス人文庫)より一部を抜粋。就任後、たった1週間でリストラを言い渡した若い女性社長に対する、幹部社員たちの反応は――。(全2回の2回目/最初から読む

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諏訪貴子さん @稲垣純也

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就任1週間で5人をリストラ

 社長に就任して1週間ほどでリストラは不可避と覚悟を決めた。

 当時、ダイヤ精機の業務は設計、製造、営業という3つの部門に分かれていた。特に問題が大きかったのは、設計部門を担当する100%子会社のダイヤエンジニアリングだ。

 ダイヤエンジニアリングには3人のエンジニアが所属していた。設計部門といっても、3人は単に図面を描く仕事を請け負うだけでなく、自ら顧客を訪ね、ゲージや治工具の新たなニーズを聞き取る営業活動も行っていた。注文を受けたら図面を描き、それを製造部門に回し、製品を製作してもらって納品するというのが彼らの仕事だ。

 だが、肝心の受注量が少なかった。3人分の人件費をまかなうには到底不足していたのである。また、注文を受けて設計・製作した製品一つひとつを見ても、売り上げ規模が小さく、利益が出ていない製品が多かった。

 一方で、3人のエンジニアは設計という専門職であったため、給与水準はダイヤ精機本体よりも1~2割高い。収益構造が脆弱で長年、不採算が続いていた。

 たとえ、社内に設計図面を描ける社員がいなくなっても、ここで1回整理することはどうしても必要だと考えた。

町工場の娘 主婦から社長になった2代目の10年戦争』(日経ビジネス人文庫)

 かつて父に提出した経営改革案通り、ダイヤエンジニアリングの解散と所属するエンジニアのリストラを決めた。社長秘書や運転手も町工場には過分と考え、計5人の社員をリストラすることにした。

「やるしかない」と決意したものの、リストラを言い渡すまでには眠れない夜を何日も過ごした。

 自分の一言で他人の人生を変えてしまう。相手から罵声を浴びるかもしれない。過去に経験のないことだけに、正直言って怖かった。

 ほかの社員が離反して辞めてしまうかもしれないとも思った。だが、「全員辞めてしまったとしても、日本中を探せば、新たに20人ぐらい雇うことはできるだろう。20人集まらず、なくなるような会社ならそれまでだ」と開き直った。

 経営者という道を選んだ自分にとって、この試練を乗り越えられなければ、次から次へ押し寄せるであろう難題に立ち向かえない。そう腹をくくった。