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 いっぽうで配偶者(パートナー)関係は、選択から始まる。運命的出会いにも選択が入っている。突然雷に打たれたような出会いは受動的なものだが、最終的には2人が選択することで結婚が成立する。いまや許嫁という親に定められた結婚は、死語となった。

 意思によって選択したからこそ、パートナー関係は解消することができる。離婚すれば法的には他人になれるし、事実婚であれば戸籍上なんの変更もなく2人は別々の人生を歩むこともできる。しかし自己選択の裏側には、選んだことの責任(自己責任)が発生するのではないか。これについてDVを例にとって考えてみよう。

DVにおける逆転意識「夫を選んだのは私」

 夫からしょっちゅう侮辱され、時には殴られている女性は多い。あまり知られていないが、彼女たちが全員「ああ、これはDVだ。夫から逃げたほうがいい」と考えるわけではない。いっぽう殴った夫も「ああ、これはDVだ。僕はDV加害者だ」と考えるわけではない。では2人はどのように考えているのだろう。

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 妻は「夫を怒らせたのは私だ」「あんな夫だが、選んだのは私だ」と考えている。夫は、「なぜ僕を怒らせるのか」「怒らせたのは妻だ」と考えている。

 つまり、DV被害を受けた妻のほうは、「私が悪い、私の責任だ」(加害者は自分だ)と思い、DV行為の主体(加害者)である夫は「自分のほうが被害者だ」「責任は妻にある」と思っている。このように、DVが起きている夫婦においては、行為と意識が逆転している。これを「DVにおける当事者性の不在」と呼んでいる。

「うまくいかない責任は自分にある」という女性の意識

 許嫁や決められた結婚の消滅とともに、両性の合意により自己選択で結婚した女性たちが登場した。それはすばらしいことに違いない。しかし選択意識の副作用もある。選択した=うまくいかない責任は自分にあるという意識だ。そのことが、被害の自覚を阻害している。