だからなのだろうか、『カーネーション』に登場する人物は、主人公の糸子(尾野真千子)をはじめ、1回しか出演がない端役のひとりに至るまで、生身の人間として物語の中で確実に「生きている」。愛も欲も業もすべてそのままに、その人らしい「あるがまま」の姿で存在し、書き手はそれを断罪したり、作劇の都合で捻じ曲げたりしない。
舞台である大正から平成にかけて、当時「あったもの」を「なかったもの」に漂白しない。家父長制の時代、糸子の父・善作(小林薫)は糸子を怒鳴るし殴る。家族と家業をまるごと失った奈津(栗山千明)は戦後パンパンになって生き延びるしかなかった。登場人物の行動と生き様が、「人間とは何か」「本質とは何か」を観る者に問いかけてくる。
放送を終えてしばらくした後、渡辺氏は『カーネーション』について、こう語っている(『朝日新聞』2012年4月4日)。
すでにある物語が見る人に届きたくて、私やスタッフや俳優たちが呼ばれた
ドラマを統べるのは、脚本家でもヒロインでもなく「物語」である。渡辺氏のこうした創作への姿勢と、作品と人物の「聖域」を尊守する距離感。ここに、『カーネーション』が稀代の名作になった理由がある。
「あんたの図太さは毒や!」「もう、さみしい。さみしいさかい」
『カーネーション』は人物の本音を「言葉」ではほぼ説明しない。疎開先で幼い直子(心花)が糸子に渡した赤い花びら、倉庫にしまわれ曳く者のいなくなっただんじり、周防(綾野剛)に恋した糸子が桶で足を洗う夕暮れ、優子(新山千春)と直子(川崎亜沙美)が奪い合った赤いバッグ、聡子(安田美沙子)が人知れず握りしめていた賞状の入った筒……。映像のなかにある、「言外」の雄弁さに息を呑む。言葉で説明のつかない感情にこそ、物語の「核」があった。
『カーネーション』の登場人物たちは説明台詞も長台詞も言わない。その言葉はどれも、血の通った、生きている人間が発する言葉だ。簡潔なのに、ズバッと芯を食う。選び抜かれ、磨き抜かれた玉のような言葉が、観る者の心の深いところにスッと落ちて、ずっと消えない。
「もっとなくなったわ。心」
「あんたの図太さは毒や!」
「さあ、お昼にしようけ」
「言いない。金輪際、言いない」
「こんでチャラや」
「もう、さみしい。さみしいさかい」
「あの子は、やったんやな。あの子が、やったんや」
真の「名台詞」は至ってシンプルで、自然だ。言葉というものは、その人がその場面で、それを言うから輝きを放つのだ。