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ブロマイド売りのアルバイト

 アルバイト先には、高名な日系人カメラマン、トーヨウ・ミヤタケ(1895~1979)の写真館もあった。ミヤタケもまた別院の檀家で、自宅をボイルハイツに構えていた。

 ミヤタケの次女、ミニー・タカハシさん(86)をロサンゼルス郊外の自宅に訪ねた。

喜多川姉弟との想い出を語るミニー・タカハシさん(ロサンゼルス在住) Ⓒ柳田由紀子

「ヒー坊たち姉弟は、うちでパートタイムしたと思います。あの頃の写真館には、現像、紙焼き、撮影助手と、いくらでも仕事があったので。母は幼い頃の彼らを知っていたし、世話好きな人だったから姉弟はよくうちに遊びに来ていましたよ」

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 そう語ると、タカハシさんは戦前、別院で開かれたハロウィーン・パーティの集合写真を見せてくれた。右端に、仮装した人々にまじってトーヨウの妻に抱かれた、着物姿であどけない表情のメリーが写っている。

別院のハロウィーン・パーティを撮影した写真に幼き日のメリー氏の姿があった(右写真の中央) Photo Courtesy of Mrs. Minnie Takahashi

「私は、10歳くらいだったかしら。お昼すぎにひとりで家にいたら、渡米直後の泰子が訪ねてきたんです。やさしくてプリティで、大好きになった。泰子の話で印象的だったのは防空壕。戦争中、爆撃機が飛んでくるとそこに逃げ込んだんだ、と。収容所でそういうことはなかったから、私、驚いちゃって。泰子がくれた写真がこれ、ずっと大事に持っているんです」

 タカハシさんが指差す先に、襖の前に伏し目がちに座る娘らしい姿のメリーがいた。渡米前に日本で撮ったものだろう。後年、女傑や女帝と称された彼女からは想像がつかない奥ゆかしさだ。

娘時代のメリー氏 Photo Courtesy of Mrs. Minnie Takahashi

 ミヤタケ写真館は、別院の目と鼻の先にあった。「あの頃は路面電車が走っていて、ボイルハイツからリトル東京へは簡単に行けた」と、タカハシさんは説明する。リトル東京は、日系人が不在だった間に黒人街に変貌したものの、戦後4年を経て元の姿に戻りつつあった。

「父は、日本から来た有名人のブロマイドも撮影して、これは物凄く売れました」

 ブロマイドは別院でも販売されたが、年配の檀家は、「ヒー坊もここへ来て働いていたわね。……ブロマイドを売っていたのを覚えています」と証言している(『ワシントンハイツ』秋尾沙戸子/新潮社/2009年)。

 ジャニー自身はブロマイドについて、日本の芸能人はお金に苦労していたので、「(トーヨウに)無料で撮ってもらうように頼んだんです。そして、(別院の)場内でそれを売って、その売り上げを全部、日本から来たアーチストにあげたんです」(「Views」95年8月号)。

 ところが、この記事をタカハシさんに英訳して伝えると、

「多忙とはいえ、我が家の暮らしに余裕はありませんでした。収容所帰りだったので、父は一からやり直したのです。それに、うちにもほかに住処のない3家族が同居していたし。ブロマイドの全売上げを渡すなんて鷹揚なことはできなかったですよ」

 と、首を傾げた。

 大方この話も、ジャニー特有の“小さな脚色“だったのだろう。