ハウスボーイとハウスガール
タカハシさんもウエスタさんも、「ジャニーが学校に通っていた」ことを憶えている。しかし不思議なことに、ウエダ邸の学校区であるルーズベルト高校の、ジャニー滞米中数年間の卒業アルバムには彼の名前も写真も載っていない。日本を出国したのが新制・新宮高校3年の秋だから、ハイスクール3年に編入したはずなのだが……。
考えられるのは、ルーズベルト高を卒業する以前に他所に越したということ。というのも、姉弟はある時期からハウスボーイやハウスガールになったからだ。ハウスボーイ、ガールとは、住み込みの家政夫(婦)の意。日中は通学し、空いた時間で働く形態も多く、戦後の窮乏時代に日系の若者がこの職に就くのは珍しいことではなかった。
無論、ハウスボーイ、ガールの立場で姉弟同居は叶わない。そのため、メリーはハリウッドの、眞一はビバリーヒルズに並ぶ高級住宅地、ベルエアの、そしてジャニーは(おそらくは)グリフィス展望台付近に散り散りになって住み込み、高校やシティ・カレッジ(公立の短大、専門学校)への通学を続けた。
彼らがそうした理由に、いつまでも日系人に頼るわけにもいかなかったことのほかに、英語の学習が挙げられる。タカハシさんの甥、カール・ミヤタケさん(64)によれば、「眞一さんは、日系社会にいたのでは日本語を使ってしまうので飛び出したと、言っていました」。
それに、「どうしても日系米人の社会に同化できなかった(メリー喜多川談)」(「女性自身」前出号)という事情もあった。そもそも日系人自体がアメリカにあってマイノリティだが、長年日本で育った姉弟は、そのなかでもマイノリティだった。日本居住後アメリカに戻った人々は「Kibei(帰米)」と呼ばれるが、アメリカで生まれ育った生粋アメリカ人の日系人とは文化が異なるため、しばしば感情や意見が対立してしまう。たとえば、テレビで真珠湾攻撃の様子が映されたとしよう。大半の帰米は日本の戦闘機を応援するが、日系人は日本の戦闘機を撃ち落とす米軍機に喝采を送る。姿形は似ていても両者の溝は深いのだ。
人種差別や偏見のなか、赤貧で、親類もなく、言葉も不自由なうえに“二重のマイノリティ” ——あれほど夢に見たアメリカは、ロサンゼルスは姉弟に冷たかった。渡米後のジャニーは、幾度も「こんなはずじゃなかった」と身悶えたことだろう。そうして、境遇が苦しければ苦しいほど、離れ離れになればなるほど姉弟の精神的な結びつきは深まったろう。
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本記事の全文(約12,000字)は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(日米徹底ルポ「誰も知らないジャニー喜多川」第3話 戦後の米国でハウスボーイの赤貧生活、疑わしい「美空ひばりの通訳」履歴、徴兵で朝鮮戦争へ)。
【連載】日米徹底ルポ「誰も知らないジャニー喜多川」
・第1話 僧侶の父、アメリカでの虚実、母の早逝、和歌山への移住