1949年、18歳のジャニー喜多川は、幼少期に離れて以来となるアメリカでの生活を再開する。しかし、当時のアメリカは根強い日系人差別が残っており、そこでの生活は決して恵まれたものではなかった。アメリカ在住のノンフィクション作家・柳田由紀子氏が徹底取材した。
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惨めだった日系アメリカ社会
ロサンゼルスの日本人街、リトル東京から東に車でほんの10分、ロサンゼルス川を渡ったところにボイルハイツという町がある。戦前、アメリカ社会のメインストリームからはじかれたユダヤ人やロシア人、そして日系人など、雑多な人種が住んでいた地区だ。現在、ボイルハイツの住民はすっかりメキシコ系が中心だが、今でも、かつて日系人のために作られた病院や宗教施設の建物が残る、うらぶれたなかにもなんともノスタルジックな一帯である。
喜多川家が、1933年(昭和8)にロサンゼルスを引き揚げるまで暮らしたのは、ボイルハイツの借家だった。76年(昭和51)に、ジャニー喜多川の姉、メリーを取材した記者はこんな文章を綴っている。
「彼女の手元にある古いアルバムには、当時、一家が住んでいた家の前で、親子三人が写ったスナップがあるが、玄関の前に猫のひたいほどの庭があり、そのすぐ前に道路と土地の広いアメリカにしては窮屈な感じの立地条件で、ただ、あふれるばかりの陽光がまき散らされていた」(「女性自身」同年5月6日号)
ボイルハイツには、第二次大戦後も多くの日系人が住まったが、誰もが一様に貧しかった。大半の家には何家族もが同居していたし、住処さえない者も多く、そんな人々は、ボイルハイツやリトル東京の日系寺院を頼った。事実、ジャニー喜多川の父、諦道(たいどう)が戦前、主監(住職)をつとめた高野山米国別院(当時は大師教会。以下、別院)でも、何十名もの日系人が肩寄せ合って暮らしていた。
皆、収容所帰りだったからである。
日米開戦から約2カ月後の42年(昭和17)2月19日、ルーズベルト大統領は、「国防上危険な者の退去を可とする」大統領令9066に署名した。その結果、約12万人の日系人がカリフォルニア州を含む軍事指定区域から、全米10カ所の荒野に急拵えされた収容所へと送られた。収容所といっても、アメリカはナチスのような虐殺は行っていない。とはいえ、4年間の収容所暮らしはあまりに長かった。
戦後、日系人がボイルハイツやリトル東京に戻ると、アパートや借家にはもちろん別の人々が住んでいたし、持ち家でさえ不法占拠されていた。
第一、職がなかった。
しかも、差別はまだ続いていた。日系人は、映画館では入場を拒否されたし、ガラ空きの長距離列車でもわざわざトイレ付近の座席に座らされ、ダイナー(食堂)に入ったところでウエイターもウエイトレスも注文を取りには来なかった。国全体は豊かな“アメリカの世紀”を迎えていたのに、日系人はあいかわらず蚊帳の外で生活再建に手一杯だった。
ジャニー喜多川が、2歳足らずで後にしたアメリカに16年ぶりで戻った時、身を寄せたのがこのボイルハイツだった。
3度目の寄寓
姉、メリー、兄、眞一(まさかず)とともに横浜港から日本を出国したジャニーは、12日間の船旅を終え、49年(昭和24)11月24日、サンフランシスコ港に到着した。日本はいまだ連合国占領下という特殊事情のため、航行には米軍用船のゴードン号が使用され、目的地のロサンゼルス直航ともいかなかった。渡航費は、「アメリカで働いて月賦で米政府に返済する」条件だったという(「女性自身」前出号)。
ボイルハイツに辿り着いた姉弟は、ここでまたしても他家に寄寓する。父の主監時代に、別院の檀家代表だったヤオゾウ・ウエダ夫妻の家である。別院では、戦中途絶えていた日本との文通が、この2年前頃から再開していた。ジャニーらは、こうした文通を通じて渡米後の目処を立てたのだろう。姉弟の米国入国記録のアドレス欄にも、ウエダ家の住所が記されている。
ウエダは若くして和歌山から渡米、苦労の末に海産物事業で財を成した。ボイルハイツの自宅も、周囲とは一線を画す堂々たる楼閣風3階建て。しかし、収容所から戻ると、この家にも「見ず知らずのメキシカンが住んでいた」と、ウエダの孫で故シカコ・ソガベさん(第1話参照)の長女、タエミ・ウエスタさん(82/ロサンゼルス在住)は語る。
「ヒー坊も泰子ねえちゃんも——私たちは、ジャニーやメリーを日本名からこう呼んでいました——しばらくの間、祖父母宅に住んでいました。ただ、祖父母の家には、当時のご多分に漏れず他の日系人たちも住んで手狭だったので、そのうちに、ヒー坊はリトル東京にあった日系人の散髪屋さんのところに、泰子ねえちゃんは私の叔母、オクニの家に越したと、亡くなった母から聞きました」
米国籍とはいえ異国に等しいアメリカで、親もなく、姉弟も離れ離れとはどんなに心細かったことか。そのうえ懐も寂しかった。ジャニーは、元ジャニーズJr.で彼の被害者だった長渡康二さん(41)に、「アメリカでは靴磨きさえした」と話したというが、メリーも、強気な彼女にしては珍しく苦労話を打ち明けている。
「決して楽な生活ではありませんでした。ベビーシッター(子守り)もやったし、ショップ・ガール(売り子)もやりました。学校が終わると、アルバイト先に直行したり……」(「女性自身」前出号)