ドラフト1位で入団したヤクルトスワローズでは、12年間で88勝。FA権を行使して入団した中日ドラゴンズでも、当然エース格級の活躍が期待された川崎憲次郎だったが、彼を待ち受けていたのは右肩の故障で、中日ドラゴンズ入りしてからの3年間で一軍登板は0。ファンからは“不良債権”と揶揄されることも少なくなかった。
落合博満はそんな選手を監督就任1年目の開幕投手に指名した。その瞬間、川崎憲次郎はどのような思いを抱いたのだろうか。このたび、かつて中日の番記者として8年間を過ごしたノンフィクション作家の鈴木忠平氏の『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(文藝春秋)が、新章の書き下ろしを加えて文庫化された。史上初となる三冠受賞(第53回大宅壮一ノンフィクション賞、第44回講談社本田靖春ノンフィクション賞、第21回新潮ドキュメント賞)を達成し、組織と個人の関係を模索するビジネスパーソンからも熱い支持を受けたベストセラーの一部を再公開する。(全3回の2回目#1、#3を読む。初出:2021/9/30)
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“不良債権”と呼ばれた選手
川崎憲次郎は車のハンドルを握っていた。2004年が明けてまもない1月2日のことだった。陽の光には力がなく、車内でも吐く息が白くなるような日だったが、とてもじっとしている気にはなれなかった。
車が向かっている先はナゴヤ球場であった。
こんな時期から動こうという選手は、もしかしたら自分だけかもしれない……。自嘲気味にそんなことを思った。
プロ16年目、34歳になる川崎を急き立てていたのは、3カ月前に中日ドラゴンズの新監督に就任したばかりの落合の言葉だった。
「キャンプ初日、2月1日に全員参加の紅白戦をやります──」
この宣言は、チーム内だけでなく球界全体を驚かせた。
プロ野球は4月の開幕に向けて、2月1日から各球団がキャンプをスタートさせる。最初は基礎練習で体力的な土台をつくり、2月半ばくらいから徐々に実戦に入るのが長い歴史の上にできあがった慣習だ。
その初日にいきなり試合をするのは常識破りであり、選手たちはそのために準備を大幅に早めなければならなかった。とりわけ川崎にとっては死活問題だった。中日へ移籍してからの3年間、右肩の故障でまだ一度も一軍で投げられていなかったからだ。
順風だった川崎の野球人生が急転したのは、中日に移籍してきた2001年のことだった。
大分県津久見高校からドラフト1位で入団したヤクルトスワローズでは、12年間で88勝を挙げた。先発投手として最高の栄誉である沢村賞も獲得し、エース格の地位を築いた。そして、30歳を迎える節目に、FA権を行使して新天地を求めた。当時の中日監督だった星野から「一緒に巨人を倒そう」という言葉をもらい、それに共鳴し、ブルーのユニホームに袖を通した。4年総額8億円という巨額の契約と、ドラゴンズのエースナンバーである背番号20を手にした。
ところが、そのシーズン直前のオープン戦で、ある一球を投げた瞬間、肩の奥の方で何かが砕けるような不気味な音がした。翌日から右肩が上がらなくなった。投げるどころかTシャツを脱ぐことすらできなくなった。
ひたすらリハビリをして、二軍で投げてみてはまた痛みに顔をしかめてリハビリに戻る。
そんな日々を繰り返しているうちに、気づけば一軍で投げないまま3年が過ぎていた。
それでも大型契約は履行されていく。毎年オフの契約更改では、一試合も投げずに年俸2億円を手にする男としてニュースになった。いつしか川崎は“不良債権”と呼ばれるようになり、球団の暗部として扱われるようになっていた。