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「2004年の開幕投手は川崎、お前でいくから──」

 そんな闇のなか、契約最後の4年目を前にして監督が替わった。これをきっかけに新しい指揮官は球界の常識を打ち破るようなことをやろうとしていた。まだアイドリングの時期に紅白戦をするのは故障持ちの投手にとって過酷ではあったが、何かを変えられるかもしれないという思いが川崎にはあった。そのためには何よりもまず、2月1日に投げなければならない。だから、冬の間も練習施設として開放されているナゴヤ球場へと車を走らせていた。

 名古屋を東西に走る片側四車線の大通りは空いていて、アスファルトの向こうには鈍色の空が広がっていた。

 携帯電話が鳴ったのはそのときだった。

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 ディスプレイに見慣れない数字が並んでいた。故障している右肩をかばうように、痛まないほうの左手で通話ボタンを押した。受話口越しに聞こえたのは球団の監督付広報、松永幸男の声だった。「今、大丈夫か?」と松永は少し硬い声で言った。そして説明なく、こう続けた。

「監督にかわるから」

 川崎の鼓動が速くなった。電話の向こうに落合がいるのだ。何の用件なのか、すぐには判断がつかなかった。

 落合が出た。前置きはなかった。

「2004年の開幕投手は川崎、お前でいくから──」

 落合はさも当たり前のことを話すような、平坦な口調で言った。

落合博満監督 ©文藝春秋

 川崎は何を言われているのか、すぐには理解できなかった。思考をグルッとめぐらせて、ようやく「開幕」とは4月2日、広島カープとの一軍のオープニングゲームのことなのだと受け止めた。ただ、言葉の意味としては理解したものの、頭はまだ、疑問符で埋めつくされていた。

 40人ほどの投手がチームにいる中で、なぜ一軍で3年間も投げていない自分が開幕投手なのか? なぜ、なぜ……。

 落合の意図は読めなかった。

 振り返ってみれば、その得体の知れなさは、かつてマウンドで対峙したバッター落合から感じたものと同じだった。

 まだ川崎がヤクルトの主戦投手だった1990年代前半、バットを持った落合とは何度も対戦した。

 当時のヤクルトではゲーム前に必ず、監督の野村克也によるミーティングがあった。野村は各バッターの傾向が記されたデータに打者心理という要素を加え、あらゆる相手に対して弱点を見つけ出すことができた。論理的でありながら、超常的な力も持った野村の言葉は、川崎ら投手たちの拠りどころだった。しかし、そんな野村でさえ首を傾げてしまうバットマンが二人だけいた。