「毎年、お正月に年賀状が一番多かった選手には会社からお年玉が出たんだけど、いつも私がダントツだった。枚数がとんでもないから。ただ、そこに書かれているのは全部『死ね!』なんだけどね(笑)」
1980年代、“極悪女王”として日本中にその名を轟かせた女子レスラーのダンプ松本さん。日本一の悪役にまで上り詰めた彼女が直面した、今ならありえない“非日常”の数々とは? 新刊『全日本女子プロレス「極悪ヒール女王」列伝』(双葉社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
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一躍、日本一の悪役に
1984年8月、クラッシュがダイナマイトギャルズ(ジャンボ堀&大森ゆかり)からWWWA世界タッグ王座を奪取すると、クラッシュブームが大爆発。クラッシュvs極悪同盟の鉄板カードで、全女の興行は日本中、どこに行っても超満員。クラッシュ人気だけでなく、ダンプ松本も一躍、大スターとなった。
時代背景を考えると、この時期、ダンプが人気を博するのは必然でもあった。なぜならば、日本のプロレス界に絶対的な悪役がいなくなっていたからだ。
新日本プロレスではラッシャー木村が国民的ヒールとなっていたが、1982年に長州力が反乱を起こすと、観客は長州を悪役ではなくヒーローとして持てはやした。同じタイミングでタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンが新日本から離脱し、ハルク・ホーガンが外国人エースとなったことで、新日本から悪役は事実上、消失した。
一方の全日本プロレスでも1983年にテリー・ファンクが引退。敵役のアブドーラ・ザ・ブッチャーが新日マットに転出しており、わかりやすい善玉vs悪玉の図式はなくなっていた。ロード・ウォリアーズの出現など善悪を超越したスターが誕生し、こちらも新しいスタイルが構築されていった。
ダンプ松本の人気に火がついたのは、ちょうどそんなタイミング。もはや男女の壁を越えて日本一の悪役になっていた。もっとも、当時の全女の客層はクラッシュに夢中になっていた女子中高生がメインで、いわゆるプロレスファンとはまたちょっと違っていたのだが、そんな女子中高生たちは、クラッシュを蹂躙する極悪同盟を本気で憎んだ。いまの時代では考えられないかもしれないが、おそらく、あの当時、日本で一番「死ね!」という罵声を浴びせられていたのがダンプだった。
「大変だったでしょ?ってよく言われるけど、私はファンに憎まれようと思って悪いことをやってきたんだから、ああやって国民から本気で憎まれるってことは、プロレスラーとしては“成功”なの。そこは覚悟を決めてやっているわけだから、けっしてつらいことばかりじゃなかった。
そういえば毎年、お正月に年賀状が一番多かった選手には会社からお年玉が出たんだけど、いつも私がダントツだった。枚数がとんでもないから。ただ、そこに書かれているのは全部『死ね!』なんだけどね(笑)。
みんなお年玉ありがとうねって気持ちですよ。カミソリも山ほど送られてきたけど、全部、有効に利用させてもらいましたよ。私、引退するまで一度もカミソリを買ったことがなかった。それだけ日本中からガンガン送られ続けていたからね(笑)。
ギャラもどんどん上がっていって、母親に家を買ってあげることもできたけど、私がいると石を投げられたりするから『引退するまでは帰ってこないで!』って母親に言われたりしてね(笑)。街でご飯を食べている時に、いきなり割れたビール瓶で襲いかかられそうになったこともあった。その時はブル(中野)ちゃんと真知子ちゃん(コンドル斎藤)も一緒だったから、私を守ってくれたんだけど、やっぱり危ないよねってことで、巡業の時には外に出なくてもいいように『極悪弁当』が用意されるようになった。移動用のバスも極悪同盟専用のもの(通称・赤バス)ができたりね」