なぜ「光る君へ」は「ベルサイユのばら」なのか?
私の場合、「ベルサイユのばら」は宝塚である。初演を宝塚大劇場で見ている。
時代はルイ16世の治世、そしてフランス革命。たしかに、フランスの宮廷生活には満足できなかったマリー・アントワネットはフェルセン(作品中ではフェルゼン)と不倫関係にあった。有名な事件や歴史的事実もちりばめられている。しかし話の軸となる主人公は男装の麗人・オスカルである。そのフェルゼンへの恋心、オスカルを慕う従者アンドレ……もうこれは、まひろと道長の恋どころの話ではない。
それでも堪能した。
遠い東洋の島国の人間にとって、フランス革命は、想像上にしか存在していない。いわば「ファンタジー」なのだ。
しかし、ファンタジーだとはいっても、好き勝手に荒唐無稽な世界を作り出したわけではない。「ベルサイユのばら」は原作の漫画の時から、きちんと歴史をとらえて、世界をつくっている。あくまでもその枠の中に架空の人物を当てはめ、純粋な創作の力によって「物語」が展開する。
アニメ版「ベルサイユのばら」は、フランスでも何度も放映されている。記録を見ると、1986年に初めて放送され、1989年に再放送。さらに、1998年、2004年にも放送されている。いずれも子供向け番組の枠で、国営テレビである。フランス革命は、日本人にとっての関ヶ原の戦いや明治維新と同じぐらい誰でも知っている重要な史実である。基本的な歴史の舞台の枠組みは、フランス人が見ても、また教育の見地からいっても耐えられるものになっていたといえる。
フランス人の妻が「光る君へ」は毎回欠かさず見ている
「光る君へ」も枠組みはしっかりしている。大石さんは先の記事で「韓流時代劇は、どういう歴史なのか我々はまったく知らないけど、見てしまう魅力がある。そういう風に平安時代を料理できないか」とプロデューサーやディレクターに言われたという。と同時に「日本人として日本の歴史を描く意志が必要ですから」とも語っている。その意図は実現されているのではないだろうか。
だからこそ、紫式部についての史実と物語のギャップに違和感をもったのだ。
しかし、大河ドラマ「光る君へ」を楽しむには、あまり史実を気にせずフィクションの世界観に入り込むのが一番である。紫式部と清少納言が親しく話すのも、「史実とは違う」ではなく、「そうだったらいいな」でいいのではないか。道長との恋もあくまでも、「まひろ」の話なのである。
おもしろいことに、いままで、戦国ものだと時々しか大河ドラマを見ないフランス人の妻が「光る君へ」は毎回欠かさず見ている。