幸福も災厄も、自分にもたらした
史実の蔦屋重三郎は何でもありの出版人だったらしい。若い頃、世話になっていた版元が潰れた際には看板作家を引き抜いて独立しているし、十ヶ月で百五十枚近い絵を東洲斎写楽に描かせて版行したり、晩年に近い時期、本居宣長に会いに伊勢松坂に足を延ばしてもいる。この蔦屋の姿に灰汁の強い名物出版人像を投影する作品も多いが、わたしはむしろ、天職を見つけて働く人間の清々しさを見た。そして、やりたいことをやって生きる人間特有の明るさを見たのである。きっとそれは、社会に出たはいいが根本的に労働に向いておらず、日々鬱々としていたわたしにとっては理想の大人だったのだろう。
そうして書いた本作は数々の書評を頂いたばかりか、『この時代小説がすごい! 2015年版』(宝島社)で単行本部門七位、オール讀物が主催する本屋が選ぶ時代小説大賞ノミネートといった実績にも恵まれたのだった。
しかしいつからだろう、本作を疎ましく感じるようになったのは。
本作は、わたしに色々な出会いをもたらした。その中には人生を変えるかけがえのないものもあった。その反面、未だにわたしを苛み続ける大きな災厄をもたらした。腹立たしい体験は枚挙に暇がない。
わたしはずっと『蔦屋』を投げ出したかった。キャリアを積む中で色々な趣向を用い、様々な時代・人物を描いてきたのは、『蔦屋』の呪縛から逃れようとしていたからなのだろう。しかし、皮肉にも、わたしは事あるごとに「『蔦屋』の谷津矢車」と紹介され続け、「『蔦屋』みたいな作品を書いてください」と版元さんからオーダーされるようになっていた。
上記の感慨は、商業作家失格と断じざるを得ない。ある若僧が覚悟もなくデビューし、多少売れたことで発生した上昇気流や下降気流に翻弄されたというだけの話なのだ。有り体に言えば、あの頃のわたしは青かった。
長らく本作を文庫化しなかったのは、自分の「青さ」に著者自身が胸焼けを起こしていたからだ。過去など振り返りたくもない。それよりも、まだ見ぬ新作を書き上げ、「『蔦屋』の谷津」を払拭したかった。――勘の良い読者の皆様におかれてはお気づきのことだろうが、そうやって動機の中央に位置してしまっている時点で、わたしにとって『蔦屋』はずっと現在進行形の物事であり続けていた。が、作家としてキャリアを重ねる中で『蔦屋』は徐々に過去の側に押しやられていった。それに従いフラットに『蔦屋』と向き合えるようになり、「昔の自分もまあまあ面白い小説書いてるやんけ」と暢気な感想を抱くに至ったのである。