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 母の豹変に、私も思考停止に陥ってしまうのですが、こんな時、真っ先に浮かぶ感情は「恥ずかしい」なんですよね。ご近所に母の罵声を聞かれたら何と思われるだろう? 朝っぱらから何事かと訝しまれたくない。その一心で、

「近所迷惑だから静かにして!」

 思わず母の口を手でふさぐと、その手を噛まれて「お母さんは獣になってしまったのか」と余計にショックで……。

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©映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』

 あの頃は「せっかくお母さんのためにデイサービスを頼んだのに、間際になって行きたくないだなんて、嫌がらせなの?」と自分の立場からしか考えられませんでしたが、今ならわかる気がします。母はきっと、自分はこの家では用済みだから本当にどこかに連れて行かれてしまうんじゃないか、という恐怖心から「行きとうない!」と必死に抵抗していたのです。

父が母のために打った芝居

 そんな、私に欠けていた「想像力」を持って母に接していたのが、父です。父は、母の無念さをちゃんと想像し理解したうえで、母に代わって家事をやる時にも母の尊厳を傷つけないよう心がけていました。90代で初めて家事に挑戦するだけでもすごいことなのに、自分が妻の領分を侵すことで妻のプライドが傷つかないようにと、気遣っていたのです。

 具体的に何をしたかというと、父はよく、母のためにちょっとした芝居を打っていました。家事をする時に、わざと鼻歌を歌いながらやったのです。

 そうすると、最初は「私がおかしゅうなったけん、お父さんに洗濯なんかさせよる。どうしよう」と落ち込んでいた母も、

「ありゃ、お父さんは鼻歌歌いながら洗濯しよるが。ホンマは洗濯が好きなんかね? まあ、好きなことをしよるんなら、やらしとってもええか」

 と気が楽になるのです。

 他にも私がよく覚えているのは、父が掃除機をかけていた時のこと。いつものように母が泣き出し、

「私が掃除せんようになったけん、お父さんにさせて、ごめんねぇ」

 と申し訳ながると、父は、

「あのね、信友家は1軒しかないんじゃけん、誰が掃除しても一緒よ。今まであんたがずっと掃除してくれよったんじゃけん、これからはわしが掃除当番になるわい」

 と言ったのです。それを聞いて私、胸がきゅんとしちゃいました。