本年、第34回Bunkamuraドゥマゴ文学賞に輝いた高野秀行著『イラク水滸伝』。選考委員の桐野夏生さんが「辺境中の辺境に挑んだ怪物的著作。文句なしに面白い!」と激賞する本書は、イラク南部に広がる巨大湿地帯〈アフワール〉の謎に挑んだ、世界的にみても画期的な一冊だ。謎の古代宗教を信奉するマンダ教徒、水牛と共に生きる遊動民マアダン、フセイン軍に激しく抵抗したアウトローたち……驚嘆の旅の裏側を語った特別インタビュー。

(初出:文春オンライン2023年7月29日)

撮影 杉山秀樹/文藝春秋

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豪傑たちが集まって政府軍と戦う『水滸伝』を彷彿させる湿地帯

――これまで世界各地の辺境地に挑んできた高野さんですが、今回なぜイラクだったのでしょうか。

高野 ティグリス・ユーフラテス川の合流地点に広がるイラクの巨大湿地帯に関しては、イギリスの探検家セシジャーが1950年代に旅をした『湿原のアラブ人』という本で、ずいぶん前から知っていました。ただ、フセイン政権によって湿地帯は壊滅状態になったと漠然と聞いていたので、とくにそれ以上の興味を持っていませんでした。

 ところが2017年1月、朝日新聞の「砂漠の国 文明育んだ湿地」と題した記事で、アラブ人が水上を小舟で行き交い、水牛が泳いでいる写真を見てびっくりしたんです。とっくに失われたと思っていた湿地帯が復活し、水の民が今も暮らしていることに。早速記事を書いた記者に連絡をとって、2日後には会って話を聞いていましたね。

湿地帯の光景

 アラブ人といえば砂漠の民なのに、この古代メソポタミア文明発祥の地では、水の民が水牛を飼い、舟で移動し、生活している。しかも戦車や軍隊が入れない湿地帯は、昔から権力に抗うアウトローや戦争に負けた者、迫害されたマイノリティが逃げ込む非常にユニークな場所でした。

――さながら『水滸伝』状態なわけですね!?

高野 そう、まさに豪傑たちが湿地帯に集まって政府軍と戦った『水滸伝』を彷彿とさせる地です。世界史上には、ベトナム戦争時のメコンデルタ、ルーマニアのドナウデルタなど、こうしたアナーキーで、レジスタンス的な湿地帯がいくつも存在します。

 さらに調べてみると、90年代のフセインの破壊以降、この湿地帯〈アフワール〉についてのまとまった一般的な報告は世界的に見てもなにもない。ものすごく面白そうだなと思い、イラク行きを決意しました。

――でも今から5、6年前だと、まだイラクの治安がかなり悪かった頃ですよね。

高野 当時は爆弾テロが頻発していて、拉致事件もよく起きていましたから、イラク国内の街に外国人はほとんどいませんでした。グリーンゾーンという米軍が警備する特別なエリアに政府関係者やジャーナリストが滞在しているくらいで。

バグダード市内の武装した警察 ©高野秀行

 イラク人の保証人がいないとビザがとれなくて入国にすごく苦労しましたし、現に滞在先のある場所ではほんの2週間違いで爆弾テロが起きました。現地の宿泊先の友人のお兄さんが強盗団に襲われる事件もあって大騒ぎでしたし。市内で普通の民家に泊まって地元の食堂でご飯を食べている外国人は僕らくらいでしたね。