1ページ目から読む
4/4ページ目

水牛と共に生きる人々の「持続可能」な生活

――それで水牛も戻ってこれたんですね。

高野 現在の湿地帯には、いたるところに水牛がいます。そこで出会った、水牛と共に生きる民マアダンの人々の「持続可能」な生活の仕組みには本当に目をみはりました。自生する葦を主食とするため大規模に一箇所にかたまったりすることはなく、各群れはほどよく分散して生息している。誰が管理するわけでもなく、水牛と共に暮らすマアダンたちは自然と分散して暮らしている。

湿地帯に生息する水牛 ©高野秀行

 牧畜と漁業の理想的な共生関係を「パストピシキュリチュール」と呼びますが、水牛がフンをする→フンが大好物の魚の餌になり、人が生活する上での燃料にもなる→豊かな漁場で水牛の大好きな葦の若葉(ハシーシ)もよく育つ。水牛が一箇所に大量に固まることがないから水質汚染も起きず、持続可能な好循環が生まれる、というわけです。

ADVERTISEMENT

 湿地民の葦の家にいくと、外壁にぺったんぺったんと手の跡がついた牛のフンが貼ってあります(笑)。乾燥させたフンは極めて優れた燃料で、窯の中に放り込んで薪のように使えて、料理をしたり暖を取ったりするのに欠かせません。葦でつくったドーム型のテントのような住まいは、解体して持ち運びも可能なので、水牛とともに移動して引越し先の浮島で、短時間で組み立てられます。

 すべてが理にかなっていて、「環境との共生って実は合理的なことなんだ」と気付かされました。

湿地民の暮らし。壁には牛フンが ©高野秀行

文明と非文明のぶつかり合いが生み出すカオスな魅力

――環境問題を考えるうえでの大きなヒントとなりますね。人類最古の文明のすぐそばでこうした生活が続いてきたことに驚きます。

高野 近くのウルク遺跡では、天体観測や文字を生んだメソポタミア文明の達成をうかがい知ることができますが、湿地民は水牛と共に移動する民だけでなく、都市文明とのあいだで中間的な生活をする人々――湿地に定住しながら都市とも行き来する農民や漁師、マイノリティの技術者も多くいました。

ウルク遺跡 ©高野秀行

 ここには、都市生活か隔絶された自然と暮らすかの二択ではなく、文明には少し距離を取りつつ利便性と自然との共生の折り合いをつける中間的な生き方のヒントもまた隠されている気がします。

 また見方を変えれば、湿地帯があったからこそ文明が生まれたとも言えます。湿地帯の乾燥した葦はよく燃える無尽蔵の燃料源でしたから。信じられないけど、ウルク遺跡のジッグラト(聖塔)には4000年前に埋め込まれた葦が残っているのが見えましたよ。

無尽蔵の燃料源・葦 ©高野秀行

 イラク湿地帯には、人類のたどってきたすべての要素が凝縮されています。文明と非文明、人工と自然、国家と反権力。相反する要素がダイナミックにぶつかり合うカオスな地は、これまで私がめぐってきたどんな辺境にもない原初的な魅力がありました。

 その“混沌と迷走”に満ちた濃密な旅をみなさんに楽しんでいただけたら、これほど嬉しいことはありません。

プロフィール
高野秀行(たかの・ひでゆき)   
ノンフィクション作家。1966年東京都生まれ。ポリシーは「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」。『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞、『謎の独立国家ソマリランド』(集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞等を受賞。他の著書に『辺境メシ』(文春文庫)、『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社)、『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)などがある。

イラク水滸伝

高野 秀行

文藝春秋

2023年7月26日 発売