博多・天神には「親不孝通り」と呼ばれる地域がある。2つの大きな予備校があり、浪人生が多いことからつけられた名前だという。
現在この地域の町内会長を務めている吉永拓哉さん(45)は、南米での経験が豊富で、ブラジルでは新聞記者を務めた。現在は日本で働く外国人向けに送金事業を行うほか、非行少年の立ち直り支援も行っている。2019年には「激レアさんを連れてきた。」(テレビ朝日)にも出演した、まさに“激レア”な人生を送った人物だ。
そして彼自身の“親不孝”ぶりも、想像を超えている。
「19歳のときに暴行、共同危険行為(暴走)、そして覚醒剤の使用で捕まって半年間少年院に入りました。20歳で仮退院したのですが、『こいつは日本では更生できない』と考えた親父の指示で、1人で南米に送り込まれたんです。言葉は分からない、知り合いも1人もいない。最初はなんてひどいことをするんだと思っていましたが、今では親父に感謝しています。南米は、自分が生まれ変わるための衝撃を十分以上に与えてくれる場所でした」(吉永さん・以下同)
日本の非行少年だった吉永さんが南米を放浪し、現地日本語新聞で記者になり地元・福岡へ帰国、「ブラジル番長」と呼ばれるまでに一体何があったのか。その波乱万丈すぎる人生とは――。
「外の空気よりシンナーを吸っているような状態でした」
「実家は北九州・小倉のコーヒー会社を経営する裕福な家でした。3人きょうだいの長男です。俺が小さかった1980年代の小倉は今以上に荒れていて、中学に入った頃には、ご多分に漏れず完全にグレていました。両親がこのままではまずいと考えたようで、俺が14歳のときに1人で親戚の家に預けられました。博多の中学に転校したんですが、ほとんど不登校だったので、実質的には“小卒”です(笑)。2年生の9月に学校でシンナーを吸っているのを見つかって『吉永君は面倒見られない』と先生にも突き放され、その後は中学へは行っていません」
『ビー・バップ・ハイスクール』も顔負けの非行少年だった吉永さん。卒業証書は郵送で自宅に届いたが、誰でも受かると言われた調理の専門学校に不合格となり、1年の空白期間の後に定時制高校へ入学。しかし生活の中心は地元友人らとともに入った暴走族で、シンナーとバイク漬けの日々は変わらなかった。
「外の空気を吸うよりビニール袋でシンナーを吸っているような状態でした。今思うとくだらないんですが、幻覚でレーザー光線が見えるんですよ(笑)。ひどいときはシンナーの袋に、マリファナやスピード(覚醒剤)の煙を入れて一緒に吸っていました。ラリった状態で行って他のヤンキーと大げんかをして定時制も2年生(留年していたので2回目)で退学しました」